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2006年8月12日 (土)

リカード派社会主義と宇野理論

 さて、「アメリカの共同体」「ホイットマンと夏目漱石」「100年前の可能性」の一連のブログは、大内先生からいただいた先のコメントをきっかけに書いているのだが、そのコメントの最後のところで、大内先生は次のように書かれている。

 「宇野理論との関連では、労働力商品化の矛盾を、プロレタリア独裁ではなく、共同体の崩壊の極点=家庭・家族の崩壊として捉え返し、共同体型社会主義の復権を図りたい。そんなことを考えています」と。

 何度も書くように、私がこのブログに書いているのは「コミュニティ論」のつもりであるから、このコメントを読んで、いよいよ「コミュニティ論の理論的基礎」が可能になるかと勇んで、私なりの感想を書こうと思った訳だが、私は文芸評論ふうはともかく、経済学については専門でないから、大内先生に対しては「釈迦に説法」どころか「釈迦に暴言」になってしまいそうであるが、先に許しを請うて、以下「暴言」を試みる。

 先に見たアナ・ボル論争の最中、大杉栄は堺利彦、山川均を「堺ボケ彦」「山カン均」とか揶揄するが、大杉栄が虐殺死した後、山川均が「大杉君と最後に会うた時」という一文に書くように、もともと彼らは共に日本の社会主義運動の先達、同志であった。
Owen  そう思ったら、先にロバート・オウエンの『自叙伝』を読んだ時に、その交遊録に、「非常に好意はもちながら経済学あるいは政治学の2、3の点で私に反対した人々のうちには、マルサス師、ジェイムズ・ミル、ジェレミイ・ベンサム、デイヴィッド・リカアド・・・等々の諸氏があった」と書かれていたことを思い出した。

 そうそうたる人士であるが、中でもリカードの名前が気になった。それは、協同組合の世界では、まれにリカード派社会主義という言葉を聞くことがあったからである。リカード派社会主義とは、「労働生産物の所有権は、それをつくりだす労働を投下した者に与えられるべきだ」とする“労働全収権論”をベースにしているという。(※『協同組合研究』(日本協同組合学会)13巻1号、杉本貴志「リカードウ派社会主義と協同組合思想史研究」より)

Karatani  また、最近読んだ岩波新書『世界共和国へ』(2006年4月刊)の中で、著者の柄谷行人氏は以下のように書いている。
 「一般に、マルクスは、スミスやリカードら古典派経済学の労働価値説を継承し、そこから剰余価値論を引き出したと考えられています。しかし、そのような仕事をしたのは、マルクスに先行するイギリスのリカード派社会主義者です。一方、マルクスが初期から惹きつけられていた問題は、貨幣がもつ力、あるいは、その宗数的な転倒や自己疎外でした。
 古典派にとって、貨幣には何の謎もありません。貨幣は、各商品に投じられた労働価値を表示したものにすぎない。ここから、オーウェンをふくむリカード派社会主義者は、貨幣を廃止して労働時間を示す労働証票を使うことを考えたのです。むしろそのような考えの安易さを批判したのがマルクスです。彼らは貨幣を否定するが、実は暗黙裏に貨幣を前提しているのです」と。
 
 杉本貴志氏は、オウエンをリカード派社会主義者とはしていないが、“労働全収権論”をオウエン主義者にまで広げると、なんとなく分かることがある。
 1年くらい前のブログにも書いたが、オウエンはニューラナークにおける自らの「インダストリアル・ヴィレッジ」を成功させた後、1824年にアメリカに渡って、ニューハーモニーのコミュニティづくりを試みて失敗、その後も当時はメキシコ領であったテキサスでの広大なコミュニティづくりを構想するがかなわず、1829年に帰国する。
 その間、イギリスではオウエン主義者による協同組合思想の普及がすすみ、協同組合づくりが試みられていたが、その中心にウィリアム・トンプスンがいた。ウィリアム・トンプスンはアイルランドの地主出身で、ベンサムにも目をかけられたというオウエン主義者であり、「不正な労働生産物の搾取を糾弾し、労働全収権の実現する正義の未来社会を夢見た」リカード派社会主義者であったという。

 ロバート・オウエンは「協同組合の父」とも言われ、協同組合は1844年のロッチデール公正開拓者組合の設立をもってその嚆矢とし、以後いわゆる「生協(消費型協同組合)」として世界中に普及するが、もともとロッチデールの組合をつくったオウエン主義者たちが構想していたのは、いわゆる「生協」ではなくて“コミュニティ”であったのであり、オウエン自身も消費生協づくりには反対していた。

 ロッチデールの組合ができた1844年というのは、マルクスでいえば『経済学・哲学草稿』の書かれた年であるが、イギリスにおいて資本主義が典型的に発展しながらも、イギリスにおける社会主義運動、労働運動が、いわゆるヨーロッパ型の革命運動にならなかったのは、名誉革命以来の議会主義の伝統や、共同体におけるコモン(共有地)の伝統とコミュニティ志向があったせいなのかもしれない。オウエンのニューラナークだけでなく、その後、資本家たちも各地に労働者の理想的な共同住宅、「インダストリアル・ヴィレッジ」づくりをしている。

 さて、1848年にヨーロッパで起こった2月革命以降、ロンドンに逃れたマルクスは、以後34年間そこに住み、イギリスにおける資本主義の発展を分析しながら『資本論』を書き上げて資本主義の運動法則を発見するが、資本主義の矛盾がエンゲルスによって「生産力と生産関係の矛盾」として易しく解説されてしまったから、後にロシアに成立した社会主義は、政治的にはプロレタリア独裁、経済学的には窮乏化論となってしまって、結局、資本主義の矛盾を解決しえないで、自ら崩壊してしまった。

Uno  余談だが、かつて学生運動が盛んな頃、私は「自由連合」と書いた黒ヘルメットをかぶってデモや集会に参加していた謂わばプルードン主義者であったが、マル経的には、当時、現代評論社から出た大内先生の『転機に立つ日本資本主義』とか『宇野経済学の基本問題』を読んで現状分析を学んだり、一般教養の経済学で宇野弘蔵の『経済原論』を取ったのと、当時、岩波新書で出た宇野弘蔵の『資本論の経済学』を読んで、宇野派を自称していた。

 『資本論の経済学』は分かり易い本で、以下のようにあった。
「商品経済の無政府性は、特に資本家的商品経済では、決して無法則性ではないのです。むしろ両者は表裏一体をなしているわけです。・・・エンゲルスにならって生産の社会性と取得の私的性格との矛盾として、いいかえれば社会的に生産されたものが資本家的に私的に取得されるというような説明も、それがまたなぜ繰返されるか、いいかえれば恐慌が不況期を経て好況期になぜ転換するかという点は説けないのです。
 もともと、そういう対立は資本主義には常にあるわけで、それだけでは、矛盾が現実的に解決されては発展するという現象を解明することはできないのです。これに対して資本主義社会の確立の基礎が、資本の生産物ではない労働力の商品化にあるということは、恐慌現象をも資本自身の展開する矛盾として、資本はこれを不況期の生産方法の改善による相対的過剰人口の形成によって現実的に解決しつつ発展する過程を明らかにし、これによってはじめてその必然性が論証できるといってよいと、私は思うのです」(P28)。
 「資本主義社会は、・・いわゆる労働力の商品化を基礎として成立するのですが、労働力は本来は商品として生産されるものではありません。・・・いわゆる無産労働者の存在、というよりはそのある程度大量的な出現を前提するのです」(P38)。
 「私は・・(労働力の商品化)の廃棄こそ資本主義とともに旧来のいっさいの階級関係の廃棄を意味するものと考えるのです」(P188)。

 ということを学んで、当時の私は、ならば自らが労働力商品としては役に立たなければ、それは革命への道につながるはずだと、訳の分からない謂わばマルクスの娘婿のポール・ラファルグ流の怠け者理論で大学を辞めたのだった。今にして思えば、当時、真面目に勉強しなかったことへの後悔はあるが、ラファルグの論が「週休3日で1日4時間労働」だというのに対して、現在の私は「週休4日で1日8時間労働」みたいなものだから、当時と少しも変わっていないと言えば変わっていなくて、後悔役立たずなのである。
 会社勤めを辞めたある日、電車の中で偶然に学生時代の友人と出会った。「俺、会社勤めを辞めたよ」と言うと、「お前、あの時も『俺、市民社会へ行く』とか言って学校辞めたな、あの頃と少しもかわっていないな」と言われた。学生の頃はボロかった彼は役人になっていて、その時もピシっとしたスーツ姿であり、私はすこしくたびれたかっこをしていた。ほめられたのか、あきれられたのか、どっちかと言えば後者でった。

 さて、学校を辞めて、労働力商品としてはあまり価値のない私は、それでも50歳までは労働力を売って生活してきて、いよいよ50歳になって会社勤めも辞めることにして、できることなら労働力商品であることも止めようと、独立自営のSOHO型仕事スタイルをめざしたのであった。そしてさらに、同様な独立自営のSOHOを集めてコミュニティをつくれないものかと、とりあえずは、そのコミュニティの場をNPO法人としたのであった。これが「NPO自主事業サポートセンター」である。

 プルードン主義の小生産者のアトリエとその連合も、リカード派社会主義者による協同組合づくりも、まだ工業化が未発達でプロレタリアートの形成されていない時代の発想と言えば、そうなのだが、工業化とりわけ重化学工業型の工業化と大株式会社の時代が終わってみれば、それはウィリアム・モリスの描く「ユートピア」と」同様に、ポスト工業化の時代に「労働力の商品化の廃棄」を考える上で、けっこうリアリティをもつ。

 資本主義は、労働力の商品化と資本の自己増殖によって継続されるが、かつての発想のように、プロ独によってこれを一挙に止めさせることはできない。資本主義は市場経済によって成り立っているが、市場の幅の方が政治の幅よりも広いのである。
 独立自営のSOHOだって、仕事は市場から得るしかない。例えコミュニティをつくったとしても、そのコミュニティが市場経済の中にあれば、同じことである。かつての社会主義は、市場経済をアフヘーベンして共産主義という「千年王国」をつくるという夢であったが、それはユダヤ・キリスト教的合理主義の世界観でしかない。

 私のめざすコミュニティにしても、かつてめざされた幾多のコミュニティと同様に、永続性のあるものにはならない。共同体型社会主義というものは、領域を広げていくにしろ、市場経済の中で資本主義と共存しながら消滅と再生を繰り返すものだと思われる。
 マルクスが『ドイツ・イデオロギー』に「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正さるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは現実的な運動、現在の状態を止揚する現実的な運動だ。この運動の諸条件は今日現存する前提から生ずる」と書くがごとく、「共産主義」を「コミュニティ」に置き換えれば、まったくそのとおりなのである。

 さてさて、8月中に納めねばならないDTP仕事が入ったから、今回はこのくらいにしておこうと思う。そしてこの仕事が片付いたら、この「暴言」を引っさげて、大内先生の「賢治とモリス」の館※に遊びに行こうと思う。そこは、私にとっては平成版の「羅須地人協会」「モリス的ユートピア」「『ドイツ・イデオロギー』的共産主義」みたいなもので、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』に「私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし・・・夕食後に批判をすることが可能になり・・・しかもけっして批判家にならなくてよいのである」と書くように、今日はDTP、明日はコンビニでパート仕事をしながらも、それが済めばユートピアに遊べる訳である。

※ http://homepage2.nifty.com/sakunami/

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コメント

極めて挑戦的な社会主義論、久しぶりに興味深く、かつ緊張して拝読しました。何せ宇野理論を正面に掲げられては、この挑発に乗らざるをえません。また、この機会に自説を整理する機会を提供して頂こうかと思いました。宜しく願います。ただ長文への回答なので、何回かに分けます。
  唯物史観
 これは「ドイツ・イデオロギー」で提起され、『経済学批判』で定式化されたものですが、この唯物史観と純粋資本主義を抽象し、恐慌の必然性を含む法則性の解明を果した『資本論』との関係をどう見るか?①唯物史観の定式の枠組みの内部で理解するか、②それとも唯物史観は『資本論』の解明のイデオロギー的仮説に過ぎないと理解するか、①がマルクス・レーニン主義の正統派の理解であり、②が宇野理論です。当然、両派の対立は『資本論』の理解、とくに恐慌論の対立になったわけです。
 唯物史観は、言うまでもなく階級闘争史観ですが、とくに「ドイデ」では、階級対立が例えば「ブルジョワとプロレタリア=有産者と無産者」の対立のように、所有論的に捉えられています。この法的イデオロギーによる階級対立が、労働者を含む生産者の労働の収取によって基礎付けられます。
 ここで労働価値説が意味をもちます。剰余労働の収取は、比較的簡単です。封建主義の労働地代なら、剰余生産物が時間・空間的に分離されるので明確ですが、資本・賃労働関係でも、W・ぺティはともかく、スミスだと分解価値説なら利潤や地代は剰余労働に簡単に還元される。リカードの労働価値説でも事実上、剰余価値論になっていたと思います。マルクスは、それを深めたに過ぎない。
 所有論的な階級把握が、労働価値説で根拠付けられれば、リカード労働価値説により、容易に労働全収益権のリカード派社会主義の主張が生まれます。さらに、労働者が権力を奪取して、プロレタリア独裁のもと、権力を集中する。集権型計画経済で、社会的所有を実現すれば、ソ連型社会主義が構想できるでしょう。
 プロ独による集権型計画経済は、唯物史観のドグマによるもので、生産力の発展と生産関係の矛盾を、剰余労働の収取=搾取を基礎に、所有論的アプローチから導かれたものです。生産力的には「全国の電化」、生産関係的には「労兵ソビエト」のプロ独型社会的所有です。
 しかし、マルクスは『資本論』では、唯物史観をイデオロギー的仮説として「導きの糸」にしたに過ぎない。純粋資本主義の抽象に成功、そこで周期的恐慌を含む「絶えざる不均衡の中の均衡法則」を科学的経済法則とした。このように下部構造の自律的運動法則を抽象して、所有権など法的イデオロギーを上部構造として、科学とイデオロギーを分離することになる。
 宇野理論は、『経済学批判』までの唯物史観の枠組みから、『資本論』の自立した位置づけをおこなった。その上で所有論的アプローチとは別の社会主義が展望できる道を拓いたと思います。労働力商品化の基本矛盾と共同体的アプローチです。(続く)
 

投稿: 大内秀明 | 2006年8月14日 (月) 21時54分

労働力の商品化
『資本論』は、それまでの唯物史観の枠組みの中での経済法則の理解を超えて、①唯物史観を単なるイデオロギー的仮設にする②純粋資本主義を抽象する③「資本の絶対的過剰生産」を軸に周期的恐慌の必然性を解明した。こうした宇野理論による『資本論』の位置づけは、古典派労働価値説を超える価値の形態規定の積極的評価を可能にした点が重要です。
 マルクスも強調したのですが、①価値の実体規定(労働価値説)に対して価値形態論の展開、②労賃を「労働の価値」ではなく「労働力(商品)の価値」規定とする③労働力商品の特殊性を基礎に資本蓄積論を動態化した。―ここから資本の絶対的過剰生産、そして恐慌の必然性解明に成功したのです。
 この労働力商品の特殊性を明確化し、そこに資本主義の基本矛盾を設定し、資本主義の特殊歴史性を見たのが宇野理論です。『資本論』には、当然のことながら労度価値説の論証など、古典派経済学の残滓も多いし、唯物史観の枠組みも残されている。宇野理論はそれを理論的に整理したのです。
 平山君も触れていた『世界共和国へ』の柄谷行人氏は「グローバル資本主義から世界共和国へ」で宇野理論、とくに恐慌論をベースに資本―国家―共同体を論じている。『文学界』8月号ですが、この号には中島一夫「空虚と反復」、佐藤優「私のマルクス」、いずれも宇野理論、恐慌論が引き合いに出されていて興味深い。経済学ではなく文学、文芸評論でマルクス、宇野理論の復権です。 いずれにしても『資本論』・宇野理論は、唯物史観の古典派労働価値説に基礎付けられた所有論的アプローチではなく、労働力商品の特殊性に基礎をおくわけです。その特殊性による生産関係に資本主義の基本矛盾を設定して、恐慌の必然性を説き、その止揚を考える。
 では、労働力商品の特殊性は、どのように設定されるのか?恐慌論としては、柄谷氏も紹介しているように「人間ですから、必要がないからといって廃棄できないし、必要だからといって急に増やせない。たとえば、人手が足りなくなると、労賃が上がり、当然、利潤率が下がります。このために、資本制経済は景気循環、あるいはひどい場合は恐慌を避けられないのです。」
 金融恐慌を回避しても、今の日本経済のように超低金利で預金者、納税者、さらに消費者に負担と犠牲をしわ寄せせざるをえない。ここに資本主義の歴史的限界を見抜く必要があるでしょう。しかし、さらに歴史的限界は、労働力の商品化が家族や地域の共同体の完全な崩壊と人間の再生産を不可能にする点にあるように思います。 

投稿: 大内秀明 | 2006年8月15日 (火) 23時21分

市場と共同体
資本主義社会の基本矛盾に労働力商品の特殊性を置くについては、古典派労働価値説の価値の実体規定に対して、価値形態論など、市場の流通形態を重視する形態規定が必要だった。この形態規定により、貨幣の必然性の解明や資本の関係概念も明確になる。
 古典派の「労働の価値」では、価値を価値で規定する自己撞着だし、形容矛盾に陥る。労働生産物ではない、人間の能力である労働力が商品化し、価値規定を与えられるためには、価値の形態規定が不可欠だった。マルクスは、価値形態論を前提して、労働力の商品化を概念化した。また労働力商品の特殊性から、労賃の市場動態分析、さらに資本蓄積による恐慌の必然性解明の道も拓れたのである。
 この労働力の商品化は、資本が「何でも生産し供給できる」根拠を与えられ、資本による社会全体の生産、つまり社会的再生産の支配を根拠付ける。純粋資本主義の抽象の理論的基礎だ。これにより周期的恐慌の必然性も明らかにされたが、資本主義の歴史的限界も明確になる。
 さらに、労働力の商品化による純粋資本主義の抽象は、社会的再生産が商品化、市場経済化することだ。市場経済の全面支配であり、これは世界市場のグローバル化などの量的拡大といった曖昧なものではない。もともと共同体と共同体の間に発展してきた商品・市場経済の全面的支配だ。ここでは労働力の再生産も、共同体への依存がゼロ、単なる「家計」の構成員に過ぎない。家計は、夫婦、子供など複数の構成員が生存しても、家族・家庭の共同体の「単位」は否定される。あくまでアトミックな個人の集合に過ぎない。
 このように労働力の商品化は、純粋資本主義の理論的基礎となることにより、共同体の全面否定を意味する。しかし、労働力の再生産は、もともと家族・家庭の共同体を基礎とせざるをえない。さらに地域の住民組織の共同体への依存も不可欠だ。労働力の「人間」としての再生産には、家族・家庭などの共同体が不可欠にもかかわらず、「商品」としての再生産では、共同体への依存を全面否定する。ここに基本矛盾を見るべきではないか?
 資本家的生産様式による工業化社会の発展の果てに、資本主義社会は家族の崩壊、少子化、人口減少、さらに地域コミュニティ崩壊など、労働力商品化の矛盾による歴史的限界を露呈したのではないか。市場原理主義への批判も、こうした労働力商品化の矛盾により根源的批判が可能になると思うが、どうだろうか?    (続く)

 

投稿: 大内秀明 | 2006年8月16日 (水) 21時14分

単純労働力
資本主義の基本矛盾を労働力の商品化に求める事により、共同体の基本単位の家庭・家族の否定になる。商品化される労働力は、単なる「家計」の担い手でアトミックな個人に過ぎない。個人主義の極点です。家計は個人の集合であり、家庭・家族の絆はない。ここに人間の「物化」の極限を見るとともに、資本主義の歴史性を認識する必要があるのではないか?
 ここまで説明してきて、少し補足させてください。
①労働力の商品化は、単なる「賃労働」ではない。労働の対価としての賃金は、中世の職人の仕事にも払われた。ハイテク技術者にも賃金は払われる。ここでの労働力の商品化は、純粋資本主義の抽象のそれだ。それは、一切の生産手段、そして労働者の最後の財産だった「熟練」も失う、「単純労働力」である。この単純労働力の商品化である。
②このように労働力の質が問題であり、この質の変化により資本主義の歴史的限界も露呈する。たとえば、職人的な技能者の役割、技術者や管理者のホワイトカラーの増大、特に重要になってきたのはIT革命によるKnowledgewoeker(平山君を含む)です。この労働力の多様性に単純労働力の商品化は対応できない。ニート,フリーターもここから生ずる。
③労働力の商品化で家庭・家族の崩壊を基礎に、地域や村落のコミュニティが崩壊せざるをえない。この点では、労働力の商品化と表裏の関係の「土地自然の商品化」の矛盾を見る必要がある。この土地自然の商品化により、土地・地価問題、さらに自然破壊がある。特に日本の地価問題は、労働力の商品化の裏面の土地の商品化の矛盾の典型だと思っている。都心空洞化や高層マンション・ビルやエレベーターの偽装設計など、土地の商品化の基本矛盾=労働力商品化の基本矛盾ではないですか。共同体崩壊の極点ですよ。
④市場経済のグローバル化も、単にIT化や格差社会の問題に矮小化してはならない。労働力の商品化の矛盾が、共同体を破壊し尽くし、多かれ少なかれ共同体に基礎付けられていた人種・民族・宗教の問題を激化している。それを近代の国民国家の組織的統合では処理できなくなった。そこにポスト冷戦―2度の大戦「熱戦」+「冷戦」の体制だった国家独占資本主義の終焉―による戦争の「テロ化」の現実もあると思いまが、省略します。
 いずれにせよ労働力の商品化による基本矛盾から、資本主義の歴史的限界を見抜く必要があります。労働力の商品化=土地自然の商品化による共同体の崩壊、そこから共同体の復権による「次社会」=社会主義の新たな構築も可能ではないか?   (続く) 

投稿: 大内秀明 | 2006年8月17日 (木) 12時23分

 社会主義                   日本では、社会主義といえばソ連型マルクス・レーニン主義、ポスト冷戦で米・資本主義が勝って社会主義が負けた。社会主義は過去のもの、「思想の廃棄物」扱いになっている。かつては先進国で例外的にマル経の影響力が強かった日本だけに、ガバナンスの低下は眼を覆いたい位、泣き言は言いたくないが現実はそうですね。
 しかし、社会主義=ソ連型マルクス・レーニン主義は、西欧から見たら非常識、常識的には社会民主主義です。このことはソ連崩壊前の80年代から、僕は言い続けていますが、日本の新旧左翼は耳を貸さない。むしろポスト冷戦で、米中心のグローバル資本主義の新段階が到来していると見ているようですね。こうした発想は、米ネオコンと同根ですよ。
 もっとも西欧の常識では、社会主義は社会民主主義を含み、かなり多様です。形容詞を挙げればキリスト教、ギルド、共同体、リカード派、ユートピア(空想的)、などです。その一部が唯物史観に裏付けられ、マルクスと言うよりエンゲルスによってドグマ化され、所有論的アプローチ―生産の社会性と取得=所有の私的性との矛盾―からプロ独による中央集権型計画経済のソ連型マルクス・レーニン主義となり崩壊した。
 だから西欧社会主義からみると、マルクス・レーニン主義は後進ロシアの「異端的一変種」だし、マルクスが唯物史観の枠組みを超え、労働力の商品化を基礎に恐慌の必然性を解明した点からすると、エンゲルスのドグマ化とレーニン、つまりエンゲルス・レーニン主義とすべきではないか?マルクス・レーニン主義では、『資本論』を書いたマルクスが余りにも可哀相です。 われわれとしては、いまエンゲルス・レーニン主義を捨てて、西欧の社会主義の多様性の中にマルクスの理論と思想を位置付け直すべきだと思います。その際、純粋資本主義の抽象に基づく労働力商品化の矛盾を軸に据えるべきですが、一方では単純労働力を超えた労働力の複雑化と多様化、特にIT革命による経済のソフト化サービス化とknowledgeworkerによる基本矛盾の激化が重要でしょう。
 他方では、工業化を前提とした資本家的生産様式、機械性工場制度の企業組織の限界とNPOなどコミュニティ・ビジネスの登場を明確にする。そのうえで第3に
労働力の再生産、社会的再生産にとっての共同体の復権を思考すべきです。これらは、いずれも労働力の商品化の基本矛盾から提起される論点です。そして、新たな知識・労働の疎外論から人間疎外論を踏まえた人間解放の思想が展望されると思うのですが、どうでしょうか?。

投稿: 大内秀明 | 2006年8月18日 (金) 13時46分

社会主義(続)
西欧社会主義の思想の多様性をまず前提しなければならないが、労働力商品化に資本主義の基本矛盾を設定するとすれば、労働力商品の特殊性と家族・家庭など共同体との関係が問題となる。社会主義の思想の流れに、共同体やギルド組織が重視されてきたのも、当然のことだろう。労働力の「人間」としての再生産には共同体が不可欠なのに、労働力の「商品」としての再生産はアトミックな個人=経済人にすぎない矛盾だ。
 社会主義という用語は、1830年代初め仏サンシモン派のピエール・ルルー、そして40年代にかけて英オーエン主義者が用いるようになつた。用語に拘りたくはないが、とくに仏語のソシアールには、共同体、協同組合の意味合いが強い。社会主義は共同体主義、コミュニズムもマルクス・レーニン主義のテーゼ―生産力のより高度で必要による分配―とは異なり、共同体に即した社会主義と同義ではないかと思う。ここにもエンゲルス・レーニンの歪曲があるのではないか?
 労働力の商品化の純粋資本主義は、商品経済=市場経済の全面支配だ。共同体経済の全面否定であり、だから労働力商品化の基本矛盾が設定される。ここに労働力商品をめぐっての市場と共同体=コミュニティの対立の極点を見抜かねばならない。労働力商品化の止揚は、共同体の復位なのだ。
 もともとマルクスが強調するように、商品経済=市場経済は共同体と共同体の間に発展してきた。両者は生産力の発展では、相互に依存する。しかし、市場経済の拡大は、共同体の経済や組織を破壊する。破壊しつくした極点に労働力の商品化、資本主義の確立=純粋資本主義の抽象があるのだ。資本主義とは、労働力の商品化による市場経済の発展の究極なのだ。究極の理論的認識は、グローバリゼーションではない。
 労働力の商品化を止揚して、資本主義を超えることは、共同体を基礎に労働力の人間としての再生産を復権する事になるだろう。社会主義の主張は、経済人の個人主義、自由主義、商業主義に対抗して、共同体に主体を転換して、人間と自然の共生をはかる思想的営為だと思うが、どうだろうか?
 
 平山君、長々と少々乱暴な議論を一方的に書かせてもらいました。頭の中を整理する積りが、代えって乱雑になったかも知れませんね。再整理宜しくお願いします。

投稿: 大内秀明 | 2006年8月19日 (土) 18時30分

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