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2006年8月29日 (火)

8月の写真日記

 むかし夏休みには、絵日記というのがあった。毎日書くはずなのだが、結局、夏休みの終わりにまとめて書いたりする。
 最近の私のブログは、日記ふうが少ないので、8月の日記のダイジェストを書く。mixiというSNSがあって、そこに書いたものだが、mixiはクローズドなので、一般公開である。

8月4日「詩を詠む」Egpp08
 フーゲツのJUNさん主催の「E.G.P.P.」というオープン・イベントがあって、時々参加して詩を詠んだりする。8月のテーマは「真夏の夜のジャズ」ということであったので、コルトレーンをBGMにして新作の詩を詠み、JUNさん と60年代新宿の思い出話を対談した。

2006年08月06日「自らの生業と老後を考える起業研究交流会」
 6月にやったシンポジウムのフォローで、NPOの事務所で「自らの生業と老後を考える起業研究交流会」を開き、会員以外に7名の参加があって、中にはNPO内に週末起業のための事務机を借りたいという人までいて、けっこう盛り上がった。

08月14日「花火」
Hanabi  昨夜は東京港の花火大会であった。これだけは、わが家は特等席で、毎年、夏の盛りを感じる一瞬である。
 毎年デジカメで花火に挑戦するが、これが難しい。花火が開くのは一瞬なのに、デジカメはシャッターを押しても、すぐにはシャッターが切れない。シャッター速度を遅くすればボケるし、AUTOでは暗すぎる。毎年、挑戦し ては失敗ばかりである。

Aa_1  花火を見飽きて部屋に戻ると、ドカンドカンと花火の爆発音だけが一帯をゆるがす。ベイルート辺りでは、これが本物の爆弾なのだろうなと思い、平和ボケを感じつつ、眠りについた。

 早朝、目を覚ますとけっこう涼しい。下の公園で蝉が鳴きだす。コーヒーを落として、昨晩の夢の跡をみながら一Bb_2服。今朝の大都会は、静かである。お盆休みもあるのだろうか、下の道を行くクルマも少ない。

 母の命日まで、あと1ヶ月。そうそう、母が入院している頃に、母に東京港の花火を見せてやろうと、撮り始めたのが、花火撮影の始まりであった。今はただ、花火が始まるとシャッターを切るだけである。

Cc 住宅の前に、埋め立てに取り残されたポンドのような水面がある。昨日まで、水面全体でボラがはねていたが、今日は静かで、なかなか仕事を始める気が起こらずにいる夏の朝である。

08月15日「極冷えのビールを飲む至極の快楽」
 マイミク(mixi仲間)アシュラさんの日記に、「極冷えのビールを飲む至極の快楽」という一文を読んで以来、「ああ、私もやりたいものだ」の思いがつのり、会社勤めを辞めて以来、自宅でビールを飲むのは正月くらいで、普段はASAHIの1缶95円のカクテル・パートナーばかりなのだが、どこかにビール券がないかと探すと、引き出しの奥から、いつのものとも知れぬビール券が1枚見つかり、これをビールに換えて来て、一風呂あびる間に冷凍庫で冷やして、風呂を出た後にグッグーと飲んだ。
う~ん、極楽と平和ボケしつつ、敗戦の日に、合掌。

2006年08月21日「ベランダリゾート」
 フーゲツのJUNさんのブログ(※下記参照)「もっとも安上がりなリゾート」にならって、私も夏の定番のベランダリゾートした。
http://angura.blogzine.jp/fugue/2006/08/post_947f.html

060821  ベランダにキャンプ用のベッドを広げて、図書館から借りてきたM.シュティルナーの『唯一者とその所有』と雑誌「BE-PAL」、それにサザンとベンチャーズとチェット・ベーカーとスタン・ゲッツのCD、それに取って置きの葉巻とアイスコーヒーを持ち出して、風に吹かれて午後を過ごした。

060821_2  南東側を向いたベランダは、午後は日陰になって、風が吹きぬけ吹き抜け、夕方までごろごろしながら、以前に何度か読みかけては読みきれないでいたM.シュティルナーの『唯一者とその所有・上巻』を読んでしまった。
 本から目を離して景色を見れば、15号アイランドの風力発電風車と臨海副都心の上を、飛行機が羽田に下りていく。

08月26日「ツーリング1」
 バイクのツーリングを兼ねて、茂木に住むカンちゃんを訪ねた。
 カンちゃんは、昔の職場の後輩で、10年くらい前に若くして脱サラをして海外を放浪、帰国後は那珂川沿いに農地を借りて百姓仕事を転々とたり、仕事を辞めてはバイクや自転車で全国を回ったりしていたが、4年前に茂木に移ってからは、木こり仕事(森林組合の職員)をしている。

Kan_7  カンちゃんはバイカーで、バイクの分解・組立てもするから、メカに弱い私は、カンちゃんを訪ねては一緒にツーリングする。今年は、白河の関まで行った。山道を選んで走るカンちゃんのトレールを、スクーターの私が追いかけるのだが、走り終えるとクタクタで、那珂川沿いの温泉につかる。

Kan_8  ツーリングに出発するカンちゃんと私。バックの家は、カンちゃんが借りている農家。5室にバスと水洗トイレがついて、家賃は月2万円!!

 カンちゃんの家から坂を下ると、5分ほどで那珂川に出る。流れは速かったが、鮎が採れる。酒の肴は鮎の塩焼きが食べきれないほどだった

08月27~28日「追っかけ『奥の細道』」
Kan  最近は「道の駅」が整備されているから、一般道を走っていても、トイレや無料休憩には困らない。茂木にも道の駅があって、一休みしていたら、その傍らを真岡鉄道のSLが通った。

 さて、私のツーリングの目的は、基本的に『奥の細道』の追っかけである。会社勤めをしていた頃にレガシィのワゴンを買って、これで『奥の細道』を走破しようと思った矢先に、会社勤めを辞めることになったので、後はレガシィを売って払いものをして、残った金で買った中古のマジェスティで走るしかないのである。 そこで今年は、芦野の「遊行柳」と「白河の関」まで行くことにしたのだ。

Kan_1  芦野の「遊行柳」は、北面の武士を脱サラして歌人になった西行が、「道のべに 清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」と詠んで、その500年後に西行を慕った芭蕉がそれを追っかけて、「田一枚 植ゑて立去る 柳かな」と一句した歌枕である。
幹線から離れた芦野は、程よく環境が守られ、田んぼの中の柳も、後人によって植え替えられして、その面影を残している。
そこで私も、次のヘボ句をした。

“稲穂むれ 語られ植えらる 柳かな”

Kan_2  芦野の「遊行柳」の次は、いよいよ「白河の関」に向かった。
「白河の関」は、古来みちのくとの境、西行よりも200年前に、元祖バカボンド坊主の能因法師が、「都をば 霞とゝもに立ちしかど 秋風ぞふく 白河の関」と詠んで、それを西行が追っかけて、さらに芭蕉も追っかけて、それを私も追っかけての、元祖追っかけ歌枕の地である。

 後の時代の調査によって、静かな山間にある緑の小山が白河の関跡と判明したということで、その入り口に石碑があった。
そこで私も、また次のヘボ句をした。

“古の 謂わば税関 秋風に偲ぶ”

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2006年8月12日 (土)

リカード派社会主義と宇野理論

 さて、「アメリカの共同体」「ホイットマンと夏目漱石」「100年前の可能性」の一連のブログは、大内先生からいただいた先のコメントをきっかけに書いているのだが、そのコメントの最後のところで、大内先生は次のように書かれている。

 「宇野理論との関連では、労働力商品化の矛盾を、プロレタリア独裁ではなく、共同体の崩壊の極点=家庭・家族の崩壊として捉え返し、共同体型社会主義の復権を図りたい。そんなことを考えています」と。

 何度も書くように、私がこのブログに書いているのは「コミュニティ論」のつもりであるから、このコメントを読んで、いよいよ「コミュニティ論の理論的基礎」が可能になるかと勇んで、私なりの感想を書こうと思った訳だが、私は文芸評論ふうはともかく、経済学については専門でないから、大内先生に対しては「釈迦に説法」どころか「釈迦に暴言」になってしまいそうであるが、先に許しを請うて、以下「暴言」を試みる。

 先に見たアナ・ボル論争の最中、大杉栄は堺利彦、山川均を「堺ボケ彦」「山カン均」とか揶揄するが、大杉栄が虐殺死した後、山川均が「大杉君と最後に会うた時」という一文に書くように、もともと彼らは共に日本の社会主義運動の先達、同志であった。
Owen  そう思ったら、先にロバート・オウエンの『自叙伝』を読んだ時に、その交遊録に、「非常に好意はもちながら経済学あるいは政治学の2、3の点で私に反対した人々のうちには、マルサス師、ジェイムズ・ミル、ジェレミイ・ベンサム、デイヴィッド・リカアド・・・等々の諸氏があった」と書かれていたことを思い出した。

 そうそうたる人士であるが、中でもリカードの名前が気になった。それは、協同組合の世界では、まれにリカード派社会主義という言葉を聞くことがあったからである。リカード派社会主義とは、「労働生産物の所有権は、それをつくりだす労働を投下した者に与えられるべきだ」とする“労働全収権論”をベースにしているという。(※『協同組合研究』(日本協同組合学会)13巻1号、杉本貴志「リカードウ派社会主義と協同組合思想史研究」より)

Karatani  また、最近読んだ岩波新書『世界共和国へ』(2006年4月刊)の中で、著者の柄谷行人氏は以下のように書いている。
 「一般に、マルクスは、スミスやリカードら古典派経済学の労働価値説を継承し、そこから剰余価値論を引き出したと考えられています。しかし、そのような仕事をしたのは、マルクスに先行するイギリスのリカード派社会主義者です。一方、マルクスが初期から惹きつけられていた問題は、貨幣がもつ力、あるいは、その宗数的な転倒や自己疎外でした。
 古典派にとって、貨幣には何の謎もありません。貨幣は、各商品に投じられた労働価値を表示したものにすぎない。ここから、オーウェンをふくむリカード派社会主義者は、貨幣を廃止して労働時間を示す労働証票を使うことを考えたのです。むしろそのような考えの安易さを批判したのがマルクスです。彼らは貨幣を否定するが、実は暗黙裏に貨幣を前提しているのです」と。
 
 杉本貴志氏は、オウエンをリカード派社会主義者とはしていないが、“労働全収権論”をオウエン主義者にまで広げると、なんとなく分かることがある。
 1年くらい前のブログにも書いたが、オウエンはニューラナークにおける自らの「インダストリアル・ヴィレッジ」を成功させた後、1824年にアメリカに渡って、ニューハーモニーのコミュニティづくりを試みて失敗、その後も当時はメキシコ領であったテキサスでの広大なコミュニティづくりを構想するがかなわず、1829年に帰国する。
 その間、イギリスではオウエン主義者による協同組合思想の普及がすすみ、協同組合づくりが試みられていたが、その中心にウィリアム・トンプスンがいた。ウィリアム・トンプスンはアイルランドの地主出身で、ベンサムにも目をかけられたというオウエン主義者であり、「不正な労働生産物の搾取を糾弾し、労働全収権の実現する正義の未来社会を夢見た」リカード派社会主義者であったという。

 ロバート・オウエンは「協同組合の父」とも言われ、協同組合は1844年のロッチデール公正開拓者組合の設立をもってその嚆矢とし、以後いわゆる「生協(消費型協同組合)」として世界中に普及するが、もともとロッチデールの組合をつくったオウエン主義者たちが構想していたのは、いわゆる「生協」ではなくて“コミュニティ”であったのであり、オウエン自身も消費生協づくりには反対していた。

 ロッチデールの組合ができた1844年というのは、マルクスでいえば『経済学・哲学草稿』の書かれた年であるが、イギリスにおいて資本主義が典型的に発展しながらも、イギリスにおける社会主義運動、労働運動が、いわゆるヨーロッパ型の革命運動にならなかったのは、名誉革命以来の議会主義の伝統や、共同体におけるコモン(共有地)の伝統とコミュニティ志向があったせいなのかもしれない。オウエンのニューラナークだけでなく、その後、資本家たちも各地に労働者の理想的な共同住宅、「インダストリアル・ヴィレッジ」づくりをしている。

 さて、1848年にヨーロッパで起こった2月革命以降、ロンドンに逃れたマルクスは、以後34年間そこに住み、イギリスにおける資本主義の発展を分析しながら『資本論』を書き上げて資本主義の運動法則を発見するが、資本主義の矛盾がエンゲルスによって「生産力と生産関係の矛盾」として易しく解説されてしまったから、後にロシアに成立した社会主義は、政治的にはプロレタリア独裁、経済学的には窮乏化論となってしまって、結局、資本主義の矛盾を解決しえないで、自ら崩壊してしまった。

Uno  余談だが、かつて学生運動が盛んな頃、私は「自由連合」と書いた黒ヘルメットをかぶってデモや集会に参加していた謂わばプルードン主義者であったが、マル経的には、当時、現代評論社から出た大内先生の『転機に立つ日本資本主義』とか『宇野経済学の基本問題』を読んで現状分析を学んだり、一般教養の経済学で宇野弘蔵の『経済原論』を取ったのと、当時、岩波新書で出た宇野弘蔵の『資本論の経済学』を読んで、宇野派を自称していた。

 『資本論の経済学』は分かり易い本で、以下のようにあった。
「商品経済の無政府性は、特に資本家的商品経済では、決して無法則性ではないのです。むしろ両者は表裏一体をなしているわけです。・・・エンゲルスにならって生産の社会性と取得の私的性格との矛盾として、いいかえれば社会的に生産されたものが資本家的に私的に取得されるというような説明も、それがまたなぜ繰返されるか、いいかえれば恐慌が不況期を経て好況期になぜ転換するかという点は説けないのです。
 もともと、そういう対立は資本主義には常にあるわけで、それだけでは、矛盾が現実的に解決されては発展するという現象を解明することはできないのです。これに対して資本主義社会の確立の基礎が、資本の生産物ではない労働力の商品化にあるということは、恐慌現象をも資本自身の展開する矛盾として、資本はこれを不況期の生産方法の改善による相対的過剰人口の形成によって現実的に解決しつつ発展する過程を明らかにし、これによってはじめてその必然性が論証できるといってよいと、私は思うのです」(P28)。
 「資本主義社会は、・・いわゆる労働力の商品化を基礎として成立するのですが、労働力は本来は商品として生産されるものではありません。・・・いわゆる無産労働者の存在、というよりはそのある程度大量的な出現を前提するのです」(P38)。
 「私は・・(労働力の商品化)の廃棄こそ資本主義とともに旧来のいっさいの階級関係の廃棄を意味するものと考えるのです」(P188)。

 ということを学んで、当時の私は、ならば自らが労働力商品としては役に立たなければ、それは革命への道につながるはずだと、訳の分からない謂わばマルクスの娘婿のポール・ラファルグ流の怠け者理論で大学を辞めたのだった。今にして思えば、当時、真面目に勉強しなかったことへの後悔はあるが、ラファルグの論が「週休3日で1日4時間労働」だというのに対して、現在の私は「週休4日で1日8時間労働」みたいなものだから、当時と少しも変わっていないと言えば変わっていなくて、後悔役立たずなのである。
 会社勤めを辞めたある日、電車の中で偶然に学生時代の友人と出会った。「俺、会社勤めを辞めたよ」と言うと、「お前、あの時も『俺、市民社会へ行く』とか言って学校辞めたな、あの頃と少しもかわっていないな」と言われた。学生の頃はボロかった彼は役人になっていて、その時もピシっとしたスーツ姿であり、私はすこしくたびれたかっこをしていた。ほめられたのか、あきれられたのか、どっちかと言えば後者でった。

 さて、学校を辞めて、労働力商品としてはあまり価値のない私は、それでも50歳までは労働力を売って生活してきて、いよいよ50歳になって会社勤めも辞めることにして、できることなら労働力商品であることも止めようと、独立自営のSOHO型仕事スタイルをめざしたのであった。そしてさらに、同様な独立自営のSOHOを集めてコミュニティをつくれないものかと、とりあえずは、そのコミュニティの場をNPO法人としたのであった。これが「NPO自主事業サポートセンター」である。

 プルードン主義の小生産者のアトリエとその連合も、リカード派社会主義者による協同組合づくりも、まだ工業化が未発達でプロレタリアートの形成されていない時代の発想と言えば、そうなのだが、工業化とりわけ重化学工業型の工業化と大株式会社の時代が終わってみれば、それはウィリアム・モリスの描く「ユートピア」と」同様に、ポスト工業化の時代に「労働力の商品化の廃棄」を考える上で、けっこうリアリティをもつ。

 資本主義は、労働力の商品化と資本の自己増殖によって継続されるが、かつての発想のように、プロ独によってこれを一挙に止めさせることはできない。資本主義は市場経済によって成り立っているが、市場の幅の方が政治の幅よりも広いのである。
 独立自営のSOHOだって、仕事は市場から得るしかない。例えコミュニティをつくったとしても、そのコミュニティが市場経済の中にあれば、同じことである。かつての社会主義は、市場経済をアフヘーベンして共産主義という「千年王国」をつくるという夢であったが、それはユダヤ・キリスト教的合理主義の世界観でしかない。

 私のめざすコミュニティにしても、かつてめざされた幾多のコミュニティと同様に、永続性のあるものにはならない。共同体型社会主義というものは、領域を広げていくにしろ、市場経済の中で資本主義と共存しながら消滅と再生を繰り返すものだと思われる。
 マルクスが『ドイツ・イデオロギー』に「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正さるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは現実的な運動、現在の状態を止揚する現実的な運動だ。この運動の諸条件は今日現存する前提から生ずる」と書くがごとく、「共産主義」を「コミュニティ」に置き換えれば、まったくそのとおりなのである。

 さてさて、8月中に納めねばならないDTP仕事が入ったから、今回はこのくらいにしておこうと思う。そしてこの仕事が片付いたら、この「暴言」を引っさげて、大内先生の「賢治とモリス」の館※に遊びに行こうと思う。そこは、私にとっては平成版の「羅須地人協会」「モリス的ユートピア」「『ドイツ・イデオロギー』的共産主義」みたいなもので、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』に「私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし・・・夕食後に批判をすることが可能になり・・・しかもけっして批判家にならなくてよいのである」と書くように、今日はDTP、明日はコンビニでパート仕事をしながらも、それが済めばユートピアに遊べる訳である。

※ http://homepage2.nifty.com/sakunami/

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2006年8月 7日 (月)

100年前の可能性

 1905年に幸徳秋水がアメリカに渡り、丁度その頃にアメリカではIWW(世界産業労働組合)が結成され、それと接触した幸徳秋水は帰国後サンジカリズムを唱え・・・と、まあこういったことをこれまで書いてきたのだが、その訳は、100年前のグローバリゼーションに立ち返って、さらにグローバリゼーションのすすむ現在を見直してみたいからである。

 IWWが1905年に結成されてサンジカリズムを掲げたことの背景には、当時の資本主義と労働運動のグローバリゼーッションがあった。今から丁度100年前の1906年に、フランスではフランス労働総同盟(CGT)のアミアン大会で、サンジカリズムを唱えるアミアン憲章が採択されている。一方、やはり1906年にイギリスでは、社会民主同盟、フェビアン協会、独立労働党の3団体により議会主義政党の労働党が成立している。

 片やサンジカリズムであり、片や議会主義であるが、当時の労働運動においては、経済闘争と政治闘争、直接行動と議会主義が激論をかわす。フランスの労働運動で、サンジカリズムを唱えるアミアン憲章が採択された背景には、ドイツの社会民主党が展開した議会主義的政治闘争への反発があるという。一方、ドイツにおいてはマルクス主義の影響を強く受けていたが、1896年には資本主義崩壊論を否定するベルンシュタインの修正主義も提起されている。

 さて、日本における社会主義運動は、安部磯雄。片山潜、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎らによって1900年1月に結成された社会主義協会と、日露戦争への非戦論を主張して『萬朝報』を退社した幸徳秋水と堺利彦が、1903年11月に立ち上げた平民社がさきがけである。政党としては、社会主義協会のメンバーによって、1901年に社会民主党が結成されたが、これは結党2日後に結社禁止となり、1906年に堺利彦や片山潜らによって、最初の合法無産政党である日本社会党が結成されている。

 1904年11月発行の週刊『平民新聞』第53号には、新聞創刊1周年の記念として、日本における最初の『共産党宣言』の翻訳で、堺利彦と幸徳秋水の共訳により『共産党宣言』が訳載されている。
 また、「『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、さらに日本にとっては敵国であるロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果のひとつは、戦争中の1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフがともに副議長に選出されて会議場で握手を交わし、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認したことである。この握手は、国際的連帯の成果として週刊『平民新聞』はもちろん、各国の社会主義陣営の機関誌等で報道された」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)とあるように、100年前の世界にはもうひとつのグローバリゼーションが成立しかかったが、20世紀の戦争がこれを大きく変えていく。

 最初の戦争は、1904年に勃発した日露戦争である。そしてその最中、1905年に第1次ロシア革命が起き、その後ロシアにおける革命は、第1次世界大戦の最中、1917年にボルシェビキ革命として、ロシアに社会主義国家を成立させた。運動家たちにとって、それまで夢のごとく語られ論議されるだけだった社会主義が眼前に登場したことの衝撃は、計り知れない程である。そして、それまでの多様な労働運動のグローバリゼーションは、ソ連共産党を中心とするインターナショナリズムに収斂していったのであった。

Anavol_1  1920年代の初頭に「アナ・ボル論争」というのがあった。当時の労働運動の分裂と再編を背景として、大杉栄と山川均との論争であるのだが、ロシア革命の影響と重化学工業化のすすむ時代、自由連合か中央集権かという論争をつうじて、これを期にアナキズム、サンジカリズムの運動は衰退していく。
 その後、70年ちょっとでソ連が崩壊した後から見れば、中央集権がいいわけもなく、大杉栄の言う「労働運動とは労働者の自己獲得運動である」という方が、現在でも新鮮味を持っているが、山川均にしても、「マルクスはこう言っている」みたいな論はまったくなく、当代一の理論家であったことがわかる。

 山川均は、当初は幸徳秋水に影響を受けたサンジカリストであったが、大逆事件後、堺利彦の売文社で糊口をしのぎ、1922年に堺利彦らと日本共産党を結成する。この第1次共産党は、関東大震災後に、堺利彦の提案で解散してしまうが、再建された共産党では福本イズムがはびこり、山川均は福本和夫から批判を受け共産党を離党、その福本和夫もコミンテルンの「27年テーゼ」で批判され、その後、共産党は現在につづく共産党になっていき、山川均は1927年に『労農』を創刊して労農派の中心になり、共同戦線党論を展開、戦後は日本社会党左派の理論的支柱となった

Yamakawa_2  ロシア革命以降、社会主義運動の中心は共産党になってしまうが、上記に見たとおり、1922年の日本共産党の結成も含めて、日本の社会主義運動のルーツは、平民社を立ち上げた堺利彦、幸徳秋水以下、大杉栄、山川均、荒畑寒村といった人々であった。(※左写真:右から大杉栄、堺利彦、山川均)
 幸徳秋水が大逆事件で死刑になり、アナ・ボル論争の一方の雄であった大杉栄が1923年の関東大震災直後に天皇制国家によって虐殺されてしまい、それ以降、いわゆるコミンテルン系が左翼運動の中心となってしまい、戦後の新左翼も含めて、社会主義のあり方もその発想内でしかなくなってしまった。

 さて、これをイギリスに見てみるとどうなるかと言えば、100年前の日本とイギリスとでは資本主義も議会主義も労働運動も、その成熟度は比較にならないほどだが、またそうであるが故に、イギリスではコミンテルン系左翼が主流になることはなかったと言える。純粋な資本主義の発達がみられ、それをもとにマルクスが『資本論』を書き上げたイギリスではあるが、『共産党宣言』の翻訳が出版されたのが1888年であるように、マルクス主義の影響はドイツほど強くはなかったようである。それは労働運動や政治運動にも反映している。

 1881年にヘンリー・ハインドマンによってマルクス主義政治団体の社会民主主義連盟が結成されるが、1884年にはそこからウィリアム・モリスらが脱退している。同年にウェッブ夫妻らによってフェビアン協会が設立され、イギリスでは議会の発達がどこの国よりもすすんでいたから、ウェッブらは「これを利用しない手はない」と考えたのであろう。1906年には労働党ができて、同年の総選挙で26議席獲得し、以後、保守党との2大政党政治が始まった。
 また、1910年代にはトム・マンによるサンジカリズム、D.H.コールらのギルド社会主義、1920年代には職場世話役運動(Shop Stewards Movement)などが展開されているように、ロシア革命後も、運動は多様であった。

 20世紀は戦争と革命と冷戦の時代であったが、それが終わってみれば、それらが特殊20世紀的なことであったことが分かる。ソ連とは、大工業化・トラスト化の時代の社会主義であったとすれば、ポスト工業化のすすむ現在から見直せば、プレ・ロシア革命の100年前の時代は、とてもリアリティのある時代だと言える。
 それは、大内先生の言われるように、工業化に対するオルタナティブとしてのウィリアム・モリスの世界であり、モリスの描いたユートピアは、宮沢賢治にとっては羅須地人協会であり、イーハトーブの世界であったのであろう。

 1918年に武者小路実篤は、宮崎県に“新しき村”をつくる。白樺派なりの理想社会(共同体)づくりである。また、1919年に佐藤春夫は『美しい町』という小説を書いた。これは「隅田川に浮かぶ小さな中州にユートピアのような町を建設しようとする夢想家たちの夢物語」であるが、そのモダニズムは、ベラミーの『かえりみれば』にも似ている。さらに中里介山は、大逆事件を契機に構想した一大長編小説の『大菩薩峠』にコミューンの可能性を追い、自らも奥多摩に小さなコミューンをつくり、そこに拠って生きた。

 要するに、私の言わんとしていることは、100年前には多様なコミューン=コミュニティの構想があったのであり、ポスト工業化のすすむ今、再びその在り方を考え直してみたいということなのである。

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2006年8月 1日 (火)

ホイットマンと夏目漱石

 6月以降DTP仕事は順調で、DTP仕事を済ます毎にブログを書くというペースである。以下の話は、「コミュニティ論」の少し遠回りではあるが、前に少し書いた「100年前のグローバリゼーション」のつづきであり、これも先の大内先生のコメントが参考になっている。
 日常のことは、ついSNSのmixiに日記してしまうが、仕事して、読書して、雑文して、詩を詠んで、酒飲んでと、下流遊民ライフを楽しむ日々である。

 黒船=ペリーの艦隊が日本に来航するのは、今から約150年前の1853年で、ゴールドラッシュで太平洋岸まで大陸を突き抜けたアメリカの発展を契機にして、それまでのヨーロッパを中心とした近代化とグローバリゼーションは、太平洋を越えて日本にも及んだ。

Whitman  ウォルト・ホイットマンは、印刷工や小学校教師、民主党系の新聞社の記者や編集者をする政治ジャーナリストであったが、1855年に詩集『草の葉』を出版、以後、生涯にわたって『草の葉』を改版する。
 1860年に日米修好条約の調印のために幕府の使節団が訪米するが、その行列を見たホイットマンは、
“壮麗なマンハッタンよ!
 わが同胞のアメリカ人よ!
 われわれの所へ
 この時遂に東洋がやってきたのだ”
と、「ブロードウェイの行列 日本使節団を歓迎して」と言う詩を書いた。ただ一人、ホイットマンの『草の葉』を認めたエマソンが共鳴した東洋が、ホイットマンの目の前に登場しことへの感動であろうか。

 また、1865年にリンカーン大統領が暗殺された時に、ホイットマンは次の「遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき」という詩を書いている。
“遅咲きのライラックが前庭に咲いて、
 西の夜空に大きな星が早くも沈んでいったとき、
 わたしは嘆き悲しんだ、そしてなお、永久に帰ってくる
  春ごとに嘆き悲しむことであろう。・・・”
 ホイットマンにしてはめずらしい叙情的な詩である。ホイットマンが『草の葉』に描こうとしたのは、アメリカという国の原風景であったが、この詩は、南北戦争前後からの産業発展の中で失われていくアメリカの原風景へのオマージュであるような気がする。

 南北戦争後のホイットマンは、アメリカ資本主義の発展からは離れて、キャムデンに住んで自然の中で暮らす。『ホイットマン自選日記』を書くホイットマンは、「わがアメリカの優秀性と生命力は、われわれの一般大衆の中にあるのであって、旧世界におけるように紳士階級の中にはないのです」(『自選日記・下巻』P109)とあるように、相変わらずポピュリストであり自然主義者でもあった。

Souseki  ホイットマンは、1892年3月に亡くなるのだが、同年10月に夏目漱石は「文壇における平等主義者の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」という文章を書く。その後、1900年に夏目漱石は文部省派遣の留学生としてイギリスに渡るが、産業化の進んだ近代西洋を目の当たりにした漱石は、ノイローゼになって帰国する。

 もし漱石が、その5年後に私費でアメリカに渡った永井荷風と同様に、私費でアメリカに渡ってホイットマンとかエマソンの研究でもしていたら、果たして漱石はノイローゼになっただろうか。
 そして、もし幸徳秋水が1905年にアメリカでなくて、イギリスに亡命していたら、果たして幸徳秋水は如何なる社会主義者として帰国しただろうか。
 19世紀半ば以降、世界の資本主義化とグローバリゼーションは急速にすすむが、20世紀の初頭に、ひとつのターニングポイントがあったように思う。

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