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2006年8月 7日 (月)

100年前の可能性

 1905年に幸徳秋水がアメリカに渡り、丁度その頃にアメリカではIWW(世界産業労働組合)が結成され、それと接触した幸徳秋水は帰国後サンジカリズムを唱え・・・と、まあこういったことをこれまで書いてきたのだが、その訳は、100年前のグローバリゼーションに立ち返って、さらにグローバリゼーションのすすむ現在を見直してみたいからである。

 IWWが1905年に結成されてサンジカリズムを掲げたことの背景には、当時の資本主義と労働運動のグローバリゼーッションがあった。今から丁度100年前の1906年に、フランスではフランス労働総同盟(CGT)のアミアン大会で、サンジカリズムを唱えるアミアン憲章が採択されている。一方、やはり1906年にイギリスでは、社会民主同盟、フェビアン協会、独立労働党の3団体により議会主義政党の労働党が成立している。

 片やサンジカリズムであり、片や議会主義であるが、当時の労働運動においては、経済闘争と政治闘争、直接行動と議会主義が激論をかわす。フランスの労働運動で、サンジカリズムを唱えるアミアン憲章が採択された背景には、ドイツの社会民主党が展開した議会主義的政治闘争への反発があるという。一方、ドイツにおいてはマルクス主義の影響を強く受けていたが、1896年には資本主義崩壊論を否定するベルンシュタインの修正主義も提起されている。

 さて、日本における社会主義運動は、安部磯雄。片山潜、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎らによって1900年1月に結成された社会主義協会と、日露戦争への非戦論を主張して『萬朝報』を退社した幸徳秋水と堺利彦が、1903年11月に立ち上げた平民社がさきがけである。政党としては、社会主義協会のメンバーによって、1901年に社会民主党が結成されたが、これは結党2日後に結社禁止となり、1906年に堺利彦や片山潜らによって、最初の合法無産政党である日本社会党が結成されている。

 1904年11月発行の週刊『平民新聞』第53号には、新聞創刊1周年の記念として、日本における最初の『共産党宣言』の翻訳で、堺利彦と幸徳秋水の共訳により『共産党宣言』が訳載されている。
 また、「『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、さらに日本にとっては敵国であるロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果のひとつは、戦争中の1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフがともに副議長に選出されて会議場で握手を交わし、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認したことである。この握手は、国際的連帯の成果として週刊『平民新聞』はもちろん、各国の社会主義陣営の機関誌等で報道された」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)とあるように、100年前の世界にはもうひとつのグローバリゼーションが成立しかかったが、20世紀の戦争がこれを大きく変えていく。

 最初の戦争は、1904年に勃発した日露戦争である。そしてその最中、1905年に第1次ロシア革命が起き、その後ロシアにおける革命は、第1次世界大戦の最中、1917年にボルシェビキ革命として、ロシアに社会主義国家を成立させた。運動家たちにとって、それまで夢のごとく語られ論議されるだけだった社会主義が眼前に登場したことの衝撃は、計り知れない程である。そして、それまでの多様な労働運動のグローバリゼーションは、ソ連共産党を中心とするインターナショナリズムに収斂していったのであった。

Anavol_1  1920年代の初頭に「アナ・ボル論争」というのがあった。当時の労働運動の分裂と再編を背景として、大杉栄と山川均との論争であるのだが、ロシア革命の影響と重化学工業化のすすむ時代、自由連合か中央集権かという論争をつうじて、これを期にアナキズム、サンジカリズムの運動は衰退していく。
 その後、70年ちょっとでソ連が崩壊した後から見れば、中央集権がいいわけもなく、大杉栄の言う「労働運動とは労働者の自己獲得運動である」という方が、現在でも新鮮味を持っているが、山川均にしても、「マルクスはこう言っている」みたいな論はまったくなく、当代一の理論家であったことがわかる。

 山川均は、当初は幸徳秋水に影響を受けたサンジカリストであったが、大逆事件後、堺利彦の売文社で糊口をしのぎ、1922年に堺利彦らと日本共産党を結成する。この第1次共産党は、関東大震災後に、堺利彦の提案で解散してしまうが、再建された共産党では福本イズムがはびこり、山川均は福本和夫から批判を受け共産党を離党、その福本和夫もコミンテルンの「27年テーゼ」で批判され、その後、共産党は現在につづく共産党になっていき、山川均は1927年に『労農』を創刊して労農派の中心になり、共同戦線党論を展開、戦後は日本社会党左派の理論的支柱となった

Yamakawa_2  ロシア革命以降、社会主義運動の中心は共産党になってしまうが、上記に見たとおり、1922年の日本共産党の結成も含めて、日本の社会主義運動のルーツは、平民社を立ち上げた堺利彦、幸徳秋水以下、大杉栄、山川均、荒畑寒村といった人々であった。(※左写真:右から大杉栄、堺利彦、山川均)
 幸徳秋水が大逆事件で死刑になり、アナ・ボル論争の一方の雄であった大杉栄が1923年の関東大震災直後に天皇制国家によって虐殺されてしまい、それ以降、いわゆるコミンテルン系が左翼運動の中心となってしまい、戦後の新左翼も含めて、社会主義のあり方もその発想内でしかなくなってしまった。

 さて、これをイギリスに見てみるとどうなるかと言えば、100年前の日本とイギリスとでは資本主義も議会主義も労働運動も、その成熟度は比較にならないほどだが、またそうであるが故に、イギリスではコミンテルン系左翼が主流になることはなかったと言える。純粋な資本主義の発達がみられ、それをもとにマルクスが『資本論』を書き上げたイギリスではあるが、『共産党宣言』の翻訳が出版されたのが1888年であるように、マルクス主義の影響はドイツほど強くはなかったようである。それは労働運動や政治運動にも反映している。

 1881年にヘンリー・ハインドマンによってマルクス主義政治団体の社会民主主義連盟が結成されるが、1884年にはそこからウィリアム・モリスらが脱退している。同年にウェッブ夫妻らによってフェビアン協会が設立され、イギリスでは議会の発達がどこの国よりもすすんでいたから、ウェッブらは「これを利用しない手はない」と考えたのであろう。1906年には労働党ができて、同年の総選挙で26議席獲得し、以後、保守党との2大政党政治が始まった。
 また、1910年代にはトム・マンによるサンジカリズム、D.H.コールらのギルド社会主義、1920年代には職場世話役運動(Shop Stewards Movement)などが展開されているように、ロシア革命後も、運動は多様であった。

 20世紀は戦争と革命と冷戦の時代であったが、それが終わってみれば、それらが特殊20世紀的なことであったことが分かる。ソ連とは、大工業化・トラスト化の時代の社会主義であったとすれば、ポスト工業化のすすむ現在から見直せば、プレ・ロシア革命の100年前の時代は、とてもリアリティのある時代だと言える。
 それは、大内先生の言われるように、工業化に対するオルタナティブとしてのウィリアム・モリスの世界であり、モリスの描いたユートピアは、宮沢賢治にとっては羅須地人協会であり、イーハトーブの世界であったのであろう。

 1918年に武者小路実篤は、宮崎県に“新しき村”をつくる。白樺派なりの理想社会(共同体)づくりである。また、1919年に佐藤春夫は『美しい町』という小説を書いた。これは「隅田川に浮かぶ小さな中州にユートピアのような町を建設しようとする夢想家たちの夢物語」であるが、そのモダニズムは、ベラミーの『かえりみれば』にも似ている。さらに中里介山は、大逆事件を契機に構想した一大長編小説の『大菩薩峠』にコミューンの可能性を追い、自らも奥多摩に小さなコミューンをつくり、そこに拠って生きた。

 要するに、私の言わんとしていることは、100年前には多様なコミューン=コミュニティの構想があったのであり、ポスト工業化のすすむ今、再びその在り方を考え直してみたいということなのである。

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