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2006年7月 9日 (日)

幸徳秋水とアメリカ

Syuusui_1  1905年にアメリカに渡った日本人に、幸徳秋水がいる。主宰する『平民新聞』に石川三四郎が書いた記事の筆禍事件で、1905年2月に巣鴨刑務所に収監された幸徳秋水は、5ヶ月に渡る収監の後、同11月にアメリカに渡り7ヶ月滞在した。永井荷風とはちがい、アメリカ各地を訪問するというよりは、サンフランシスコとオークランドを中心とするエリアでの、亡命と癒しと再起に向けての滞在であった。

 平民社が解散した後に出た『光』という週刊新聞に、幸徳秋水がアメリカから寄せた文章から、幸徳秋水のアメリカ滞在の一端を見てみると、以下のようである。

 「シアトル市より」という一文には、以下の記述がある。
 「昨一日は、日本人会堂において、わたくしのために演説会がひらかれました。・・・聴衆は、会堂いっぱいでありました。多分五百名ぐらいはありましたろう。警部も巡査も私服の刑事もいないところで、さる二月入獄以来の沈黙をはじめてやぶり、自由に正直に「戦後の日本」という問題について、所見をのべる一時間半、すこしく胸がすいたように思いました。
 わたくしは、この地の日本人青年中にも、また多少の社会主義者、もしくは社会主義研究者を見いだしました。なお当地に滞留を寸すめてくれる人もありましたが、サソフランシスコ平民社支部の模様も見たい、支部の諸君も至急の来遊をうながしてきたので、明三日の夜出発、サンフランシスコに向かうことにしました」。

 「桑港(サンフランシスコ)より-その1-」には、以下の記述がある。
 「(オークランドから)十五分でサンフランシスコの埠頭につく。ここにも、岩佐・市川・中沢・倉持、その他10余名の同志諸君が、出むかえてくれた。・・・故国における同志諸君よ。東京における平氏社は、解散した。いや、解散させられた。『直言』は、停止された。失意の客、敗軍の人として、ひとりションボリこの地にきたわたくしが、たちまち広壮な洋館の入口に、和英両様の金文字で、「平民社桑港支部」という黒板の看板がかかげられているのか見たときの愉快さは、いかばかりであったか。見よ、平民社は、まだ解散しないのである。平民社は、いまなお存在しているのである。あの連中の毒手のとどかないところで、その分身が、これから大きな成長をしようとしているのである。 とにかく、わたくしは、この地におれば、生活の方法も立ちそうだし、当分静養かたがた、この地の事情に通じたうえ、さらにこの地に平民社の事業の根拠をおくことに尽力してみたい、と思う。集会も、言論も、出版も自由で、金銭ももうけやすいこの地において、熱心な運動をしたならば、日本社会運動の策源地・兵姑部、および迫害された同志の避難所をつくりだして、ちょうどロシア革命党員がスイスを運動の根拠としたようになりはしないかと思う。これは、わたくしの空想かもしれないが、できるだけはやってみるつもりである」と。

 「桑港より-その2-」には、以下の記述がある。
 「アメリカ社会党の人びとも、しばしばわたくしを来訪して、諸種の新聞・雑誌を送ってくれ、あるいは、諸種の集会に招待されました。昨夜も、サンフランシスコ社会党の一支部の小集会に出席してみましたが、きわめて愉快で品のよい会合でした。彼らは、遠来の同志に対して、きわめて快活に親切に取り扱うこと、まるで同胞に対するようです。・・
わたくしは、彼らの運動方法を研究し、また彼らとの提携をたやすくするため、サンフランシスコ社会党に入党し、その一員となりました。同時に、日本人だけの会合も、平民社で毎週開会のことになっています」。
「わたくしは、まだアメリカ中流・上流の社会を知りません。また知りたくもありません。これらは、これまでの洋行者が、十分研究・吹聴したところです。わたくしは、ただ下層の社会運動・革命運動の潮流に接触してみたいと思っております」と。

 「桑港より-その3-」には、以下の記述がある。
 「サンフランシスコと入江をへだてているオークランド市における同志は、一月六日の夜、僕をまねいて演説会をひらきました。オークランドには、カリフォルニア州全体の白人の社会党本部が設置され、そこの機関紙として、『ソシアリスト・ボイス』と題する、ちょうど『光』ぐらいな週刊新聞を発行しています。
 オークランド日本人社会主義者の演説会も、この米人社会党本部の会堂をかりてひらいたので、米人同志は、親切に待遇してくれました。・・・
この夜の会は、午後八時からひらき、聴衆二百名で、同志植山君が司会をつとめ・・・
 オークランドの日本人中には、新知識のある学生が多いので、社会主義の思想は、案外ひろまっておるようです。将来、この地とサンフランシスコと内所の同志が連合して働けば、大いに勢力をえてくることと信じます」。

 先の永井荷風の見たシアトルの日本人街ではないが、当時のアメリカ西海岸には沢山の日本人の出稼ぎ労働者がいて、それに混じって社会主義者もいたようであり、幸徳秋水もそこに「日本社会運動の策源地・兵姑部、および迫害された同志の避難所」をつくりだそうと活動したようである。そしてこのことが、後に大逆事件をでっちあげられる要因にもつながってくる。

 オークランドは、古くはアメリカの社会主義者で作家のジャック・ロンドンを生んだ地であるが、60年代にはヘルズ・エンジェルズ(地獄の天使たち)からブラック・パンサー党を生んだアメリカでも筋金入りの対抗運動の地である。そして、サンフランシスコならびにオークランドという街が、60年代のアメリカの対抗文化運動だけでなくて、日本の対抗運動にとっても所縁の深い地であることに感慨を覚える。

 1998年に法制化された日本のNPOも、1990年代の初頭に、日本にアメリカにおけるNPOの存在と活動を知らせる活動をしたのは、オークランドにあるJPRN(日本太平洋資料ネットワーク)という日系のNPO団体であった。
 ここの活動家であったK氏やO氏は、日本をはみ出した留学生みたいなものであったが、日本にそれを伝えようとする熱意の背後には、かつてのオークランドの地における先人たちの霊があったのかもしれない。

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