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2006年7月 9日 (日)

永井荷風とアメリカ

Nkafu  20世紀初頭のアメリカにおけるサンジカリズムの労働運動であったIWWについて書いている途中でパソコンがクラッシュしてしまい、プチ挫折の後、気持ちの切り替えで、永井荷風の『あめりか物語』と『ふらんす物語』を読んでみた。

 文学者の洋行というと、森鴎外や夏目漱石が思い浮かぶが、それらの官費によるミッションをもった決死の洋行とは違い、永井荷風の洋行は遊学と放浪であった。明治の時代に足掛け5年にわたるアメリカとフランスでの放浪は、写真に見る背が高く細面な当時のイケメンな面影とも重なって、日本文学史上のエポックメイキングとも言えるが、帰朝後の永井荷風の生き様は、日本の近代化を見直す鏡であるとも言える。

 『あめりか物語』は、1903年にアメリカに渡った永井荷風が、カレッジに学び、ワシントンの日本大使館でアルバイトし、ニューヨークで銀行員をしながら、1907年にフランスに渡るまでの4年間を、エッセイというよりは短編小説で描いた物語である。当時のアメリカには、様々なかたちで日本人が渡っており、登場する人物はそれらの日本人であったり、荷風の分身であったりする。

 永井荷風は、アメリカに4年滞在したが、実はアメリカが嫌いであった。『ふらんす物語』にある「再会」という短編小説には、こう書かれている。
 「その頃、吾々は共に米国にいながら、米国が大嫌いで、というのは、二人とも初めから欧洲に行きたい心は矢の如くであっても、苦学や自活には便宜の至って少い彼の地には行き難いので、一先米国まで踏出していたなら、比較的日本に止まっているより、何かの機会が多かろうと、前後の思慮なく故郷を飛出した次第であったからだ。・・・」
 「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。ロシヤのような・・虐殺もなければ、ドイツ、フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる。止むを得ない、吾々は米国の地にある間は、米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボーのために一杯を傾けようといって、酒場のカウンターに寄り掛り、ウイスキーを飲んだ事も幾度であったろう」と。

 「不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国」というのは、かつてトクヴィルの見たアメリカ社会そのものであり、さすが永井荷風、西海岸から中西部、東海岸までを4年間も放浪すれば、「アメリカ社会の健全な常識」と「米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボー」をちゃんと見抜いている。

 それにしても、1903―1907年のアメリカというのは、先に書いたブログに記したように、まさに1905年6月にシカゴでIWWが誕生しているのである。永井荷風は1905年3月にシカゴの友人を訪問して、その幸せなアメリカ人の友人の家庭を「市俄古(シカゴ)の二日」という短編に残しているが、まさにその頃、シカゴの街の底辺では、IWWの設立準備がすすめられていた。

 実家からの仕送りで暮す遊民的洋行者であった永井荷風が、アメリカにおけるささやかな労働運動に触れ得ないのは、当然と言えば当然なのだが、「北米の旅舎にて明治36年(1905年)11月稿」とある「夜の霧」という短編には、次の描写がある。これは、アメリカに渡った荷風が最初に住んだシアトル近郊のタコマにおいて出会った日本人の描写である。

 「年の頃は三十歳を越えたるべし。・・・雨と塵埃に汚されたる古き中折帽を冠り、処々破れて皺のみ多き背広の下には白襯衣もなく、垢染みたるフラネルの肌衣に歪みたる襟飾掛けたり。思うにこれ、鉄道工事に雇われつつある人夫か、さらずば白人の家の台所に使役せらるる奉公人、その以上の人にては非ざるべし」。

 「夜の霧」には、「最も低き賃銀にて、一日の労働を売り、次第に彼らの領地を侵略し行くもの、これ日本人と支那人なれば、・・・」という表現もあるが、当時のアメリカ西海岸には、日本からのたくさんの出稼ぎ労働者があったようである。

 同じ頃に書かれた「舎路(シアトル)の一夜という短編には、「舎路の日本人街を見物しようと思って、或る土曜日の夜、こっそりその方へ歩いて行った」という書き出しに始まり、以下のように当時のシアトルの偽悪劣悪な日本人街が描かれている。

 「近付けば両側の建物は、繁華を誇る第一通りなぞとは違い、場末の街の常として、尽く低い木造ばかり。ふとそれらの或る二階家の窓を見ると、何やら日本字で書いた燈火が出してあるので、私はひた走りに走寄ると、「御料理 日本亭」としてあった。以前から話に聞いて承知はしていたものの、さて実際の有様に接すると、いうにいわれぬ奇異な感じが先に立って、少時はただ訳もなく看板を見上げるばかり。すると二階の窓からはやがて、三味線の音が聞え出した。・・・しかし今はもう目に入る看板、尽くこれ日本の文字ばかりとなった。嘗て船中で聞いた話のその通り、豆腐屋、汁粉屋、寿司屋、蕎麦屋、何から何まで、日本の町を見ると少しも変った事のない有様に、少時は呆れてきょろきょろするばかり。いつの程か大分賑かになった人の往来も、その大半は、足の曲った胴長の我が同胞で、白人といえば大きなパイプを御えている労働者らしい手合である」。

 イチローが渡る100年も前に、シアトルには沢山の日本人が住んでいた。そして、永井荷風はその「偽悪劣悪な在留日本人種の生活を描写」することから、彼自身の放浪を始めたのだった。

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