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2006年7月13日 (木)

永井荷風と幸徳秋水

 「午飯の箸を取ろうとした時ボンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓の簾を動かしている。・・・」という、ちょうど今頃の季節の景を描いた美しい文章で始まる、永井荷風の『花火』という短編がある。

 そして、その半ばあたりに下記の文章がある。
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた,わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではない━否とやかく申すのはかえって畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をば呆れるよりはむしろ尊敬しようと思立ったのである」。

 永井荷風が見た市谷刑務所を出る囚人馬車に乗っていたのは、大逆事件で裁判所に引き立てられる幸徳秋水ほかの囚人であった。ここで初めて、永井荷風と幸徳秋水は、間近にすれちがったのであった。

 大逆事件とそれ以降の冬の時代に、大逆事件について書き物をした名のある文学者は、ほぼ永井荷風ひとりであった。フランスに憧れて、ボードレールやヴェルレーヌの詩を訳しながら、アメリカとフランスを5年に渡って放浪した「近代主義的文学者」であった永井荷風の、決意とその後の生き様は、夏目漱石の文学と同様に、「日本の近代化」の在り様を強く問うものがある。

 『花火』は、これもまた心をさらりと景に代える、次の文章で終わっている。
 「花火はしきりに上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい・・・」。

 1959年4月、永井荷風は80歳で死んだ。私が10歳の時である。時代は重なっているのだ。永井荷風の死後、日本は60年代からの経済の高度成長を通じて、80年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にまで上りつめた。しかし、そこに至る日本人の世俗と上昇志向は、永井荷風の時代と少しも変わりはなかったのではあるまいか。

 高度成長期に青春した私たちの世代も、もう50代の後半であるが、この時代を生きて、「何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした」人は、果たしてどれほどいるものなのだろうか。戯作者になるには素養の欠ける私は、せいぜいフーテンにでもなって、私は私の生き様をしなくてはいけないと思う次第である。

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