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2006年7月21日 (金)

アメリカの共同体(コミュニティ)

 前のブログに大内先生からコメントをいただいた。「永井荷風と幸徳秋水」の次は、何を書こうかと迷っていたら、大内先生からのコメントを読んで、パソコンのクラッシュ前に書こうとしていたことを思い出した。大内先生のコメントへの対応というかたちで、それを書いてみようと思う。

 メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカに入植した植民者たちが、最初につくったのがコモン(common)であったといわれます。コモンは、本国のイギリスにある共有地のことですが、入植者たちはコモンに面してコモン・ハウス、またはミーティング・ハウスと呼ばれる集会所をつくって、入植地(コロニー)の運営=タウン・ミーティングをしたようです。

 また、入植者たちはイギリス本国におけるイギリス国教会による宗教的迫害から逃れてきたピューリタンと呼ばれるカルヴィニストであったわけですが、彼らが追求したのは聖書中心の福音主義であり、純粋な個人の信仰でありました。要するにピューリタンは、イギリス本国で実現できなかったことを新世界アメリカで実現しようとしたのであり、彼らの殖民したエリアを“ニューイングランド”と名づけたのでした。

 アメリカにおける新世界的共同体=コミュニティは、当初は宗教的、理念的に志向されたのでありますが、アメリカでは連邦政府ができる以前からコミュニティが存在しおり、独立後もトクヴィルが見るように、人々は個人主義的、商業主義的ではありながらも、同時に公共精神を持ち、連邦政府よりもコミュニティを志向しています。

 しかし、トクヴィルが見た19世紀前半のアメリカ以降、とりわけ南北戦争を契機にアメリカの資本主義の大発展が始まり、政府は市場原理主義と自由主義、社会的ダーヴィニズムを国是としていましたから、人々貧富の格差は急速に拡大して、それに対してポピュリズム(人民主義)運動が起こり、ベラミーの『かえりみれば』が書かれて国民主義的なベラミー・クラブが広がり、世界産業労働組合(IWW)が誕生することになります。

 そして、それらの運動に共通する特徴は、ヨーロッパに見られるような、いわゆる社会主義的な「革命」運動であるよりは、建国の原点=コミュニティに立ち返ろうとするアメリカ的な運動なのであります。
 前に紹介したIWWについて書かれた『ウォブリーズ』と『IWWとアメリカ労働運動の源流』には、以下のように書かれています。

 「たいていの西欧諸国は賃金奴隷制をともなう産業資本主義の途をとらざるをえなかったのだが、それは西欧諸国ではアメリカよりもより永い期間をかけてより堅固につくられていた。これに反してアメリカでは、西部の大平原一帯にわたって、罠猟師や商人、自営農民、牧揚主や探鉱者たちについての記憶はいまなお生き生きと人々の胸にとどめられており、すでにロマンティクな神話のゆたかな伝統によってちりばめられていた。ひとつの共通の要因が、右にのべた職業に従事するすべての人々を統合し、彼らをとりまく伝説の網をつらぬいてー本の糸に紡がれていた。それはほかでもない。不屈の独立精神である。そして、賃金制度ではなく、まさにこうした独立不覇の精神こそが辺境を開発したのだった・・・・・要するに、世紀の転換期にさいして、・・アメリカの賃金制度にたいしてつきつけられた抗議は、ヨーロッパにおけるこれと同様な抗議よりもはるかに草の根に近いものだった。ヨーロッパの労働者たちは、この当時には賃金制度より他の制度をほとんど記憶によみがえらすことはできなかった。いいかえるなら、彼らは賃金制度にかわるべき制度をはっきりと心にえがくことさえできなかった。だが、より一層快適な生活の幻想は辺境の近くに生活している多くのアメリカ人にとってはいまだにきわめて生き生きとしたものだった。辺境では、そうした幻想は、・・たったいま失ったばかりの生活の記憶にもとづいていたのだ」(P.レンショウ『ウォブリーズ』p76)。

 「19世紀末に別のアメリカ像を夢みた人々は・・・エドワード・ベラミー、あるいはアメリカ南部や大草原の諸州の人民党員、さらには労働騎士団の影響を受けた数百万の労働者であろうとも、ほとんどのアメリカ人は小さな農場や家内工業の仕事場で自分のために働いていた(旧き良き)時代を回顧し想像した。かれらは独立的な小規模生産者が大共和国(アタリカ)の改革のために自主的に協力する経済や社会を現実のものとして描写することができた」(メルビン・ドボフスキー『IWWとアメリカ労働運動の源流』p19)。

 「初期の指導者と組合員のほとんどは、1880年代と90年代初頭にポピュリズムとして知られる大衆に基盤を置く大規模な政治運動の高揚を経験した。それは綿生産の南部諸州、小麦生産の大草原の諸州、さらには鉱山地帯の西部の山岳諸州を総ナメにした。・・・
 人民党は、アメリカ国民を金権支配から、農民を抵当権による収奪から、労働者を賃金奴隷制から解放するように訴えた。かれらは人民が決起し、自分たちの先祖が建国のためにイギリスと闘った共和国の原理を根本的に回復するように提案した」(前掲書p33)。

 アメリカ独立革命について、佐伯啓思氏は「アメリカ独立革命は、イギリスの本来の立憲的精神に戻ろうとする運動であったということだ。そしてここにこそアメリカの独立が言葉の厳密な意味で“革命”と呼ばれる理由がある。なぜなら“革命(リヴォリューション)”とはもともと最初の状態への回帰、あるいは事物の回転といった意味なのだから」(『「アメリカニズム」の終焉』P198)と書いていますが、アメリカ独立革命とは、未完のイギリス革命の理念的再生と言えなくもありません。そして、アメリカにおける労働運動や社会主義的運動も、アメリカ独立革命の原点=建国時のコミュニティに立ち返ろうとするアメリカ的な運動なのでありました。

 ついでに書いておけば、ヨーロッパから近代合理主義の理念が移植されたアメリカの思想には、「革新主義」というか「進歩主義」というような伝統があって、これは対抗運動の側にも同様にあります。以下は、前掲書からの引用ですが、これを読むとベラミーの世界がやっと理解できます。

 「(IWWの指導者)ヘイウッドは、労働者が科学的根拠で組合を役立し、無秩序で野放図な資本主義ではなく、科学的で効率的なサンジカリズムの社会が建設されなければ労働者は決して解放されることはないであろうと主張した。このように、かれのサンジカリズム的ユートピアに向けた闘争は、科学的に組織された産業別組合によって科学的に展開されるはずであった。これもまたエドワード・ベラミーの技術的空想主義に立脚して提出された主題であり、進歩的な近代科学を崇拝し、ヘイウッドのサンジカリズムのキャンペーンと同じように、経済学者ソースタイン・ヴェブレン(Thorstein veblen)の『技術者支配』の十字軍に名前を連らねたアメリカ人の間で共感を得たものであった。・・・大規模なベラミー主義の運動を形成したのは、労働者ではなく、中産階級のアメリカ人であったし、ほんの一握りの技術エリートだけがヴェブレンの技術主義の思想から運動を創出したのである」(『IWWとアメリカ労働運動の源流』p194)。

 日本の反体制運動は、コンピューター化を否定しましたが、アメリカでは対抗文化の中からパソコンが生み出された理由も、これでよく分かります。

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2006年7月17日 (月)

私のコミュニティ論

 DTP仕事がひと段落した後、久しぶりにまとめてブログを書いた。1905年のアメリカにおける永井荷風と幸徳秋水の話である。

 元々は、大内先生が堺利彦が訳して平民社から出版されたエドワード・ベラミーの『かえりみれば』を手に入れて、「おい君も読んでみないか」と言うから、読んだ感想をブログに書き出して、そしたら書いている途中でパソコンがクラッシュして、プチ挫折の後、切り口を変えて書き出したのだった。

 当初のブログのモチーフは、それまでのブログのつづきで「コミュニティ論」であったが、今回は切り口を変えたので、「100年前のグローバリゼーション」となってしまった。 もっとも「コミュニティ論」も、グローバリゼーションへの対応として書き出したから、別のものではないのだが。

 ただ今回は、20世紀初頭のアメリカにおけるIWWによるサンジカリズムの労働運動と、幸徳秋水の渡米によるそれとの接触、同じ時期にあったアメリカにおける鈴木大拙らによる禅と仏教の講演行脚は、その後のアメリカの対抗文化運動にもつながっているし、現在の私たちにもつながっているのだということを書きたかったのである。

 市場原理主義の押し付けではない、100年前にすでにあった、もうひとつのグローバリゼーションの可能性についてである。

 ブログについて、大内先生から以下のコメントをいただいた。このブログへの直接のコメントではなく、SNSのmixiの私の日記へのコメントであったが、ここに再録しておきます。

 「グローバリズムとコミュニズム(共同体主義)の対立・相克は、第1次大戦、ロシア革命以前から大きな問題だったと思います。もともと資本主義は世界市場が前提だから、グローバルな発展は当たり前、むしろ両大戦のブロック化、冷戦の東西対立の2つの世界の時代が変則だったのではないか。第1次大戦以前に戻ってグローバリズムとその対抗軸の共同体主義=社会主義が提起されるように思います。コミュニティ・ビジネスもそこを抑えないと駄目ですね」。

 上記の大内先生のコメントに対する私のコメントは、以下です。

 大内先生、コメントありがとうございます。キイワードは「コミュニティ」であると思っています。 もともと私のブログは、1年前の書き始めから「コミューン論」でした。

 「コミューン」という言葉には、「革命」と同様な左翼主義的なニュアンスがあるため、成功したコミューン的実態を、トクヴィルが見た19世紀前半のアメリカのコミュニティに求めて、コミュニティ論としたのです。 コミュニティをベースにした分権―連邦主義のアメリカで、なぜロバート・オウエンはニュー・ハーモニーでの共同体づくりに失敗したのか? というのがきっかけでした。

 アメリカは、アダム・スミスの期待どおり、建国の当初から市場主義の国でした。しかし同時に、旧世界からそこに移住した人々が創り上げようとしたのは、新世界的コミュニティでもありました。 ですからアメリカでは、市場原理主義が行き過ぎると、原点=コミュニティ回帰的な対抗運動が生じます。

 アメリカ以外の国では、革命家たちにとってはコミュニティは、社会主義のベースとしてのコミューンという認識であり、コミューンというのも、やがてはプロレタリア独裁にとって変わられるものでしかありませんでした。 ですから、革命後までも生き延びようとするコミューンは、革命政権からすれば反乱分子でしかありません。

 いずれにせよ、mixiのようなヴァーチャル・コミュニティも含めて、先入観にとらわれずにもう一度コミュニティを見直すべきです。市場経済やグローバリズムに対抗できるものは、そこにしかないと私は思います。

 また、コミュニティ・ビジネスというのは、コミュニティにおける生業みたいなものだと思いますが、それは市場経済を否定したものというよりは、市場経済を活用して、それと共存できるようなものでないとダメだと思います。 

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2006年7月13日 (木)

永井荷風と幸徳秋水

 「午飯の箸を取ろうとした時ボンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓の簾を動かしている。・・・」という、ちょうど今頃の季節の景を描いた美しい文章で始まる、永井荷風の『花火』という短編がある。

 そして、その半ばあたりに下記の文章がある。
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた,わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではない━否とやかく申すのはかえって畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をば呆れるよりはむしろ尊敬しようと思立ったのである」。

 永井荷風が見た市谷刑務所を出る囚人馬車に乗っていたのは、大逆事件で裁判所に引き立てられる幸徳秋水ほかの囚人であった。ここで初めて、永井荷風と幸徳秋水は、間近にすれちがったのであった。

 大逆事件とそれ以降の冬の時代に、大逆事件について書き物をした名のある文学者は、ほぼ永井荷風ひとりであった。フランスに憧れて、ボードレールやヴェルレーヌの詩を訳しながら、アメリカとフランスを5年に渡って放浪した「近代主義的文学者」であった永井荷風の、決意とその後の生き様は、夏目漱石の文学と同様に、「日本の近代化」の在り様を強く問うものがある。

 『花火』は、これもまた心をさらりと景に代える、次の文章で終わっている。
 「花火はしきりに上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい・・・」。

 1959年4月、永井荷風は80歳で死んだ。私が10歳の時である。時代は重なっているのだ。永井荷風の死後、日本は60年代からの経済の高度成長を通じて、80年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にまで上りつめた。しかし、そこに至る日本人の世俗と上昇志向は、永井荷風の時代と少しも変わりはなかったのではあるまいか。

 高度成長期に青春した私たちの世代も、もう50代の後半であるが、この時代を生きて、「何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした」人は、果たしてどれほどいるものなのだろうか。戯作者になるには素養の欠ける私は、せいぜいフーテンにでもなって、私は私の生き様をしなくてはいけないと思う次第である。

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100年前のグローバリゼーション

 1905年にアメリカに渡った日本人に、円覚寺の管長であった宗演がいる。宗演は、その前に円覚寺を訪れたサンフランシスコの大家具商の婦人の招きで渡米する。そして、1897年来アメリカに渡ってアメリカ人の仏教研究家を手伝っていた鈴木大拙を通訳にして、禅と仏教を語るアメリカ行脚を行った。この宗演の渡米は8ヶ月にわたったというから、永井荷風、幸徳秋水の滞在とも重なっている。
 ちなみに、幸徳秋水の秋水の雅号は、恩師の中江兆民がつけたもので、荘子の「秋水時至レバ百川に灌グ云々」からとられたそうである。

Howl  さて話しが飛ぶが、それから半世紀たった1955年11月に、サンフランシスコの画廊シックスギャラリーで、ビート詩人のアレン・ギンズバーグが『ほえる(HOWL)』を詠んで、サンフランシスコ・ポエトリー・ルネッサンスの幕開けとなったポエトリー・リーディングが開かれた。ゲーリー・スナイダーも詩を詠み、ジャック・ケルアックがそれを聴いていた。

Dharma  スナイダーとケルアックは、その後、カリフォルニアの山々を歩き回り、ケルアックはそれを『ダルマバムズ』に書いた。バークレーにあるスナイダーの小屋には、みかん箱に入った鈴木大拙の書いた禅や仏教の本があり、旅をしながら、スナイダーは禅や仏教をケルアックに教えるのだが、もうひとつ、スナイダーはIWWについても語るのだった。

 『ダルマバムズ』は、スナイダーが仏教を学ぶために日本に渡るところで終わる。そして、やがてケルアックの『路上』がベストセラーになり、1960年代の初頭に日本でも翻訳され、新宿のふーてんはスナイダーと交わり、日本にもビートが出現し・・・となったのだった。

Emerson  それよりずっと前のことだが、1830年代のアメリカはボストンに、「宇宙の本質、神と人間の内面とは究極的に同質のものだ」と主張するエマソンに代表される超絶主義が出現した。そして、この思想の背景には、東洋思想もあったという。

 エマソンの影響を受け、その思想を実践した人に、『ウォルデン、森の生活』で有名なヘンリー・デイヴィッド・ソーローがいる。ソーローは、メキシコとの戦争に反対して納税を拒否して投獄されThoreau るが、ずっと後に、インド人のガンジーは、ソーローの市民不服従の思想に影響を受けて、非暴力と不服従を実践した。

 さらに1960年代のアメリカにおける公民権運動では、その指導者であったマーサー・ルーサー・キング牧師は、ガンジーの影響を受けて非暴力と不服従を実践し、その後、ポスト・ビートゼネレーションのヒッピーたちは、禅やインド哲学にふれながら、”Love & peace” を実践したのだった。

 アメリカは、ヨーロッパに生まれた合理主義と啓蒙思想を建国の理念とし、個人主義と自由主義、経済的には市場主義の国である。しかしそこには、理念の実践とあわせて、建国の原点であるコミュニティへの自家撞着と、対抗運動が常に生起してくる。

 100年前に鈴木大拙がやろうとしたことは、西洋合理主義思想と東洋思想との調和であり、スナイダーやビートがやろうとしたことも、またそうであっただろう。それは、現在世界中ですすみつつある近代主義的理念の普遍化を背景とするグローバリゼーションとは別の、もうひとつのグローバリゼーションの追求であり、100年以上の昔から試みられているのである。

439333242309  最近、西垣通著『情報学的転回―IT社会のゆくえ』(2005年春秋社刊)という本を読んだ。著者は、IT技術者からスタンフォード大学に留学して研究者をやっている多才な人であるが、アメリカがパソコンやインターネットを生み出す背景には、ユダヤ・キリスト教的な一神教による進歩思想があると言う。そして、自由競争と適者生存を是とする市場経済と情報化、グローバリゼーションの進展は、人々のコンピューターへの隷属、格差社会化やニート、フリーターから、進歩思想の武力によるおしつけまでも生み出していると言う。

 そして著者は、一神教的な進歩思想を根底から批判する論理を、以下のように求めていく。
  「ユダヤ=キリスト教文明を相対化できる思想なり社会哲学なりは、いったいどこにあるのか。あるいはどうすれば構築できるのか」(P235)。
 「対抗軸として、いま私がもしや期待できるかもしれないと思っているのは、古代インド哲学です。ヴェーダーンタ哲学、ウパニシャッド哲学ともいいます。古代インド哲学というとわれわれに縁遠いようだけれど、仏教もヒンドゥー教もこの流れから出ているわけです。巨大な宗教潮流です。・・・」(P236)
 「ユダヤ=キリスト教というのは、繰り返し言うように、生命を外側から眺めています。ところが古代インド哲学は逆に、生命を内側から眺めているように思われます。世界がブラフマン(梵)という、根本原理というか、汎意識みたいなものによって満たされていて、ジーヴァという生物の魂はその部分的投影みたいなものであるわけです。
 ところで生命システムを内側から眺めるというのが、オートポイエーシスの発想です・・・」(P237)。
 「ブラフマン(梵)はあらゆるところに遍在する意識というか、宇宙原理です。一方、われわれ一人ひとりのなかにあるのが、アートマン(我)です。ところで、ブラフマンとアートマンとは実は一致している。実は重なっている。梵我一如というわけです。古代インド哲学や仏教などは、そういうことを言うわけです。
 生命流という発想は、こういう考え方とも通じると思います。生命体が世界をそれぞれのやり方で認識する。それらの重なりとして宇宙が存在する。・・・これが生物を内側から眺めるということなのです。・・・」(P238)
 「オートポイエティック・システムである「心」においては、思考が自己循環的に生み出されていく。過去に基づいて今の思考がっくり出されるのです。仏教の識別作用もこれに近いのではないでしょうか。
 ユダヤリキリスト教が生んだものが近代科学です。近代科学の中からオートポイエーシスという考え方が出てきたのですが、それがもう一つの普遍思想である古代インド哲学とか仏教と共鳴してくるというのは、とても面白いことですね」(P239)。

 以上、もうひとつのグローバリゼーションの直近の展開であり、私がこのブログで書こうとしているモチーフも、ひとつはそこにあるのだ。

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2006年7月11日 (火)

幸徳秋水とIWW

 20世紀初頭のアメリカにおいて、国籍を超えて、底辺労働者を単一の労働組合に組織しようとしたIWWは、日本人労働者の組織化もめざしたという。グローバリゼーションの進むその100年後の日本においてさえ、圧倒的多数の労働組合が外国人はおろか、日本人のパート労働者でさえ疎外しているというのに、当時も現在も市場経済を国是とするようなアメリカにおいて、100年前に!である。

 アメリカに渡ってアメリカ社会党の党員にもなった幸徳秋水は、このIWWとも接触しており、「桑港より-その2-」には、次の記述がある。
 「この手紙を書きかけているところへ、世界工業労働者組合の会員三名(みな社会主義者です)がきて、彼らの集会に出席し、演説することを依頼していきました。彼らの組合の組織・運動の模様は、次便にご通信したいと思います」と。

 また、「桑港より-その5-」には、次の記述もある。
 「社会労働党の人びとは、現時のアメリカにおける「資本労働調和」的組合に反対するがために、昨年六月から、あらたに「世界労働者同盟」という革命的労働組合かおこし、本部をシカゴにおいて、さかんに運動している。この組合に、その名のしめすように、まったく世界的で、人種的偏見などは、すこしもない。もし日本人労働者がよく団結して、この組合の一部となって提携して運動することになれば、有力な援助がえられたのだが、かなしいかな、日本労働者の多数は、社会主義も知らねば、世界的労働組合の存在も知らぬ。日本の労働者が知らぬばかりでなく、日本の紳士も名士も、いっこう知らぬ。ただ排斥派の労働組合があるのを知っているだけである。そして、それを社会主義者と混同している」と。

 1906年4月に幸徳秋水は、サンフランシスコで大地震にあい、「無政府共産制の実現」という次の一文を書いた。
 「ぼくは、サンフランシスコの今回の大変災について、有益な実験をえた。それは、ほかでもない。さる十八日以来、サンフランシスコ全市は、まったく無政府共産制の状態にある。商業は、すべて停止、郵便・鉄道・汽船は、すべて無償、食料は、毎日救助委員から給与する。食料の運搬や病人・負傷者の収容・介抱や、焼けあとのかたづけや、避難所の造営は、すべて壮丁が義務的に働く。買うといっても、商品がないので金銭はまったく無用のものとなった。財産私有は、まったく消滅した。おもしろいではないか、しかし、この理想の天地も、向こう数週間しかつづかないで、また元の資本家私有制度にかえるのだ。おしいものだ」と。

 1906年6月、オークランドで社会革命党を結成した幸徳秋水は帰朝、すぐに開かれた歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」を講演し、そこでそれまでの議会主義から、下記のごとくゼネラル・ストライキを提案した。
 「(爆弾か、アイクチか、竹やりか。ムシロ旗か)いや、これらはみな、十九世紀前半の遺物にすぎない。近づいてきた革命の手段として、欧米の同志がとろうとしているのは、そんな乱暴たものではないのである。たた労働者全体が、手をこまハいてなにもしないままで、数日、あるいは散剤、あるレに数月になれば、それで十分なのである。そして、社会のすべての生産・交通機関の運転を停止すれば、それで十分なのである。いいかえるならば、いわゆるゼネラル・ストライキを実行するだけのことである」と。

 アメリカでの交流と経験は、幸徳秋水に新しい社会のイメージを垣間見せた。幸徳秋水はアメリカについて、「アメリカは、けっして自由の楽土ではない。もし楽士であるとすれば、それは、ただ金をもっている人の楽土にすぎない。・・・かりそめにも貧富の懸隔のあるところには、革命の怒濤が、かならずおしよせてこよう、としているのである」(「桑港より-その4-」)と書いたが、「貧富の懸隔のある」現実は、現代でも少しも変わることはないのである。

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2006年7月 9日 (日)

幸徳秋水とアメリカ

Syuusui_1  1905年にアメリカに渡った日本人に、幸徳秋水がいる。主宰する『平民新聞』に石川三四郎が書いた記事の筆禍事件で、1905年2月に巣鴨刑務所に収監された幸徳秋水は、5ヶ月に渡る収監の後、同11月にアメリカに渡り7ヶ月滞在した。永井荷風とはちがい、アメリカ各地を訪問するというよりは、サンフランシスコとオークランドを中心とするエリアでの、亡命と癒しと再起に向けての滞在であった。

 平民社が解散した後に出た『光』という週刊新聞に、幸徳秋水がアメリカから寄せた文章から、幸徳秋水のアメリカ滞在の一端を見てみると、以下のようである。

 「シアトル市より」という一文には、以下の記述がある。
 「昨一日は、日本人会堂において、わたくしのために演説会がひらかれました。・・・聴衆は、会堂いっぱいでありました。多分五百名ぐらいはありましたろう。警部も巡査も私服の刑事もいないところで、さる二月入獄以来の沈黙をはじめてやぶり、自由に正直に「戦後の日本」という問題について、所見をのべる一時間半、すこしく胸がすいたように思いました。
 わたくしは、この地の日本人青年中にも、また多少の社会主義者、もしくは社会主義研究者を見いだしました。なお当地に滞留を寸すめてくれる人もありましたが、サソフランシスコ平民社支部の模様も見たい、支部の諸君も至急の来遊をうながしてきたので、明三日の夜出発、サンフランシスコに向かうことにしました」。

 「桑港(サンフランシスコ)より-その1-」には、以下の記述がある。
 「(オークランドから)十五分でサンフランシスコの埠頭につく。ここにも、岩佐・市川・中沢・倉持、その他10余名の同志諸君が、出むかえてくれた。・・・故国における同志諸君よ。東京における平氏社は、解散した。いや、解散させられた。『直言』は、停止された。失意の客、敗軍の人として、ひとりションボリこの地にきたわたくしが、たちまち広壮な洋館の入口に、和英両様の金文字で、「平民社桑港支部」という黒板の看板がかかげられているのか見たときの愉快さは、いかばかりであったか。見よ、平民社は、まだ解散しないのである。平民社は、いまなお存在しているのである。あの連中の毒手のとどかないところで、その分身が、これから大きな成長をしようとしているのである。 とにかく、わたくしは、この地におれば、生活の方法も立ちそうだし、当分静養かたがた、この地の事情に通じたうえ、さらにこの地に平民社の事業の根拠をおくことに尽力してみたい、と思う。集会も、言論も、出版も自由で、金銭ももうけやすいこの地において、熱心な運動をしたならば、日本社会運動の策源地・兵姑部、および迫害された同志の避難所をつくりだして、ちょうどロシア革命党員がスイスを運動の根拠としたようになりはしないかと思う。これは、わたくしの空想かもしれないが、できるだけはやってみるつもりである」と。

 「桑港より-その2-」には、以下の記述がある。
 「アメリカ社会党の人びとも、しばしばわたくしを来訪して、諸種の新聞・雑誌を送ってくれ、あるいは、諸種の集会に招待されました。昨夜も、サンフランシスコ社会党の一支部の小集会に出席してみましたが、きわめて愉快で品のよい会合でした。彼らは、遠来の同志に対して、きわめて快活に親切に取り扱うこと、まるで同胞に対するようです。・・
わたくしは、彼らの運動方法を研究し、また彼らとの提携をたやすくするため、サンフランシスコ社会党に入党し、その一員となりました。同時に、日本人だけの会合も、平民社で毎週開会のことになっています」。
「わたくしは、まだアメリカ中流・上流の社会を知りません。また知りたくもありません。これらは、これまでの洋行者が、十分研究・吹聴したところです。わたくしは、ただ下層の社会運動・革命運動の潮流に接触してみたいと思っております」と。

 「桑港より-その3-」には、以下の記述がある。
 「サンフランシスコと入江をへだてているオークランド市における同志は、一月六日の夜、僕をまねいて演説会をひらきました。オークランドには、カリフォルニア州全体の白人の社会党本部が設置され、そこの機関紙として、『ソシアリスト・ボイス』と題する、ちょうど『光』ぐらいな週刊新聞を発行しています。
 オークランド日本人社会主義者の演説会も、この米人社会党本部の会堂をかりてひらいたので、米人同志は、親切に待遇してくれました。・・・
この夜の会は、午後八時からひらき、聴衆二百名で、同志植山君が司会をつとめ・・・
 オークランドの日本人中には、新知識のある学生が多いので、社会主義の思想は、案外ひろまっておるようです。将来、この地とサンフランシスコと内所の同志が連合して働けば、大いに勢力をえてくることと信じます」。

 先の永井荷風の見たシアトルの日本人街ではないが、当時のアメリカ西海岸には沢山の日本人の出稼ぎ労働者がいて、それに混じって社会主義者もいたようであり、幸徳秋水もそこに「日本社会運動の策源地・兵姑部、および迫害された同志の避難所」をつくりだそうと活動したようである。そしてこのことが、後に大逆事件をでっちあげられる要因にもつながってくる。

 オークランドは、古くはアメリカの社会主義者で作家のジャック・ロンドンを生んだ地であるが、60年代にはヘルズ・エンジェルズ(地獄の天使たち)からブラック・パンサー党を生んだアメリカでも筋金入りの対抗運動の地である。そして、サンフランシスコならびにオークランドという街が、60年代のアメリカの対抗文化運動だけでなくて、日本の対抗運動にとっても所縁の深い地であることに感慨を覚える。

 1998年に法制化された日本のNPOも、1990年代の初頭に、日本にアメリカにおけるNPOの存在と活動を知らせる活動をしたのは、オークランドにあるJPRN(日本太平洋資料ネットワーク)という日系のNPO団体であった。
 ここの活動家であったK氏やO氏は、日本をはみ出した留学生みたいなものであったが、日本にそれを伝えようとする熱意の背後には、かつてのオークランドの地における先人たちの霊があったのかもしれない。

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永井荷風とアメリカ

Nkafu  20世紀初頭のアメリカにおけるサンジカリズムの労働運動であったIWWについて書いている途中でパソコンがクラッシュしてしまい、プチ挫折の後、気持ちの切り替えで、永井荷風の『あめりか物語』と『ふらんす物語』を読んでみた。

 文学者の洋行というと、森鴎外や夏目漱石が思い浮かぶが、それらの官費によるミッションをもった決死の洋行とは違い、永井荷風の洋行は遊学と放浪であった。明治の時代に足掛け5年にわたるアメリカとフランスでの放浪は、写真に見る背が高く細面な当時のイケメンな面影とも重なって、日本文学史上のエポックメイキングとも言えるが、帰朝後の永井荷風の生き様は、日本の近代化を見直す鏡であるとも言える。

 『あめりか物語』は、1903年にアメリカに渡った永井荷風が、カレッジに学び、ワシントンの日本大使館でアルバイトし、ニューヨークで銀行員をしながら、1907年にフランスに渡るまでの4年間を、エッセイというよりは短編小説で描いた物語である。当時のアメリカには、様々なかたちで日本人が渡っており、登場する人物はそれらの日本人であったり、荷風の分身であったりする。

 永井荷風は、アメリカに4年滞在したが、実はアメリカが嫌いであった。『ふらんす物語』にある「再会」という短編小説には、こう書かれている。
 「その頃、吾々は共に米国にいながら、米国が大嫌いで、というのは、二人とも初めから欧洲に行きたい心は矢の如くであっても、苦学や自活には便宜の至って少い彼の地には行き難いので、一先米国まで踏出していたなら、比較的日本に止まっているより、何かの機会が多かろうと、前後の思慮なく故郷を飛出した次第であったからだ。・・・」
 「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。ロシヤのような・・虐殺もなければ、ドイツ、フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる。止むを得ない、吾々は米国の地にある間は、米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボーのために一杯を傾けようといって、酒場のカウンターに寄り掛り、ウイスキーを飲んだ事も幾度であったろう」と。

 「不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国」というのは、かつてトクヴィルの見たアメリカ社会そのものであり、さすが永井荷風、西海岸から中西部、東海岸までを4年間も放浪すれば、「アメリカ社会の健全な常識」と「米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボー」をちゃんと見抜いている。

 それにしても、1903―1907年のアメリカというのは、先に書いたブログに記したように、まさに1905年6月にシカゴでIWWが誕生しているのである。永井荷風は1905年3月にシカゴの友人を訪問して、その幸せなアメリカ人の友人の家庭を「市俄古(シカゴ)の二日」という短編に残しているが、まさにその頃、シカゴの街の底辺では、IWWの設立準備がすすめられていた。

 実家からの仕送りで暮す遊民的洋行者であった永井荷風が、アメリカにおけるささやかな労働運動に触れ得ないのは、当然と言えば当然なのだが、「北米の旅舎にて明治36年(1905年)11月稿」とある「夜の霧」という短編には、次の描写がある。これは、アメリカに渡った荷風が最初に住んだシアトル近郊のタコマにおいて出会った日本人の描写である。

 「年の頃は三十歳を越えたるべし。・・・雨と塵埃に汚されたる古き中折帽を冠り、処々破れて皺のみ多き背広の下には白襯衣もなく、垢染みたるフラネルの肌衣に歪みたる襟飾掛けたり。思うにこれ、鉄道工事に雇われつつある人夫か、さらずば白人の家の台所に使役せらるる奉公人、その以上の人にては非ざるべし」。

 「夜の霧」には、「最も低き賃銀にて、一日の労働を売り、次第に彼らの領地を侵略し行くもの、これ日本人と支那人なれば、・・・」という表現もあるが、当時のアメリカ西海岸には、日本からのたくさんの出稼ぎ労働者があったようである。

 同じ頃に書かれた「舎路(シアトル)の一夜という短編には、「舎路の日本人街を見物しようと思って、或る土曜日の夜、こっそりその方へ歩いて行った」という書き出しに始まり、以下のように当時のシアトルの偽悪劣悪な日本人街が描かれている。

 「近付けば両側の建物は、繁華を誇る第一通りなぞとは違い、場末の街の常として、尽く低い木造ばかり。ふとそれらの或る二階家の窓を見ると、何やら日本字で書いた燈火が出してあるので、私はひた走りに走寄ると、「御料理 日本亭」としてあった。以前から話に聞いて承知はしていたものの、さて実際の有様に接すると、いうにいわれぬ奇異な感じが先に立って、少時はただ訳もなく看板を見上げるばかり。すると二階の窓からはやがて、三味線の音が聞え出した。・・・しかし今はもう目に入る看板、尽くこれ日本の文字ばかりとなった。嘗て船中で聞いた話のその通り、豆腐屋、汁粉屋、寿司屋、蕎麦屋、何から何まで、日本の町を見ると少しも変った事のない有様に、少時は呆れてきょろきょろするばかり。いつの程か大分賑かになった人の往来も、その大半は、足の曲った胴長の我が同胞で、白人といえば大きなパイプを御えている労働者らしい手合である」。

 イチローが渡る100年も前に、シアトルには沢山の日本人が住んでいた。そして、永井荷風はその「偽悪劣悪な在留日本人種の生活を描写」することから、彼自身の放浪を始めたのだった。

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2006年7月 2日 (日)

ブログとSNS

 先のパソコンのクラッシュで、書きかけの文章がなくなってしまい、少しめげて、ブログから遠ざかってしまった。昨日、人と会ったら、ブログのことを聞かれ、家に帰ると仙台の大内先生からも「ブログどうしました」のメールが届いていた。多寡にかかわらず、読者はいるのだと感謝する次第です。

 ブログからは遠ざかっていたが、最近は、mixi(ミクシイ)という流行のSNS(Social Network Service)にはまっている。このSNSというのは、会員制のHPとブログみたいなもので、同趣味の人が集うコミュニティもあって、若い人が中心だが、最近は団塊の世代もけっこうやっている。

 80年代のパソコン通信とBBS(電子掲示板)にはじまり、90年代のインターネットとホーム・ページから、2000年代には誰でもつくれるブログ、そしてSNSへと、個人による情報発信の波が、ヴァーチャルなコミュニティをつくるところまで来たかというのが、SNSの実感である。

 書きかけだった文章は、いわば「コミュニティ論」で、トクヴィルの見た19世紀前半のアメリカのコミュニティから、19世紀後半の産業化のすすむアメリカにおける「原点=コミュニティ回帰」の諸運動あたりまで書いていたところだった。

 アメリカにおける市場経済の進展とそれへの対抗運動を見ていると、対抗運動の側には常に「原点としてのコミュニティへの回帰」というモチーフがあることが分かる。70年代の対抗文化運動の中から生まれたパーソナル・コンピューターは、よりオープンに、よりパーソナルな方向へ展開をしながら、とりあえずはヴァーチャルなコミュニティづくりまで来たかというのが、私のSNSについての印象である。

 明日までに仕上げなければならないDTP仕事がふたつあって、先週からけっこう忙しい。これが済んだら、またブログを書き出そうかと思っている。一般論はブログに、私的感懐はMIXIの日記にと、まあ、こんな書き方になるだろうか。

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