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2006年7月13日 (木)

100年前のグローバリゼーション

 1905年にアメリカに渡った日本人に、円覚寺の管長であった宗演がいる。宗演は、その前に円覚寺を訪れたサンフランシスコの大家具商の婦人の招きで渡米する。そして、1897年来アメリカに渡ってアメリカ人の仏教研究家を手伝っていた鈴木大拙を通訳にして、禅と仏教を語るアメリカ行脚を行った。この宗演の渡米は8ヶ月にわたったというから、永井荷風、幸徳秋水の滞在とも重なっている。
 ちなみに、幸徳秋水の秋水の雅号は、恩師の中江兆民がつけたもので、荘子の「秋水時至レバ百川に灌グ云々」からとられたそうである。

Howl  さて話しが飛ぶが、それから半世紀たった1955年11月に、サンフランシスコの画廊シックスギャラリーで、ビート詩人のアレン・ギンズバーグが『ほえる(HOWL)』を詠んで、サンフランシスコ・ポエトリー・ルネッサンスの幕開けとなったポエトリー・リーディングが開かれた。ゲーリー・スナイダーも詩を詠み、ジャック・ケルアックがそれを聴いていた。

Dharma  スナイダーとケルアックは、その後、カリフォルニアの山々を歩き回り、ケルアックはそれを『ダルマバムズ』に書いた。バークレーにあるスナイダーの小屋には、みかん箱に入った鈴木大拙の書いた禅や仏教の本があり、旅をしながら、スナイダーは禅や仏教をケルアックに教えるのだが、もうひとつ、スナイダーはIWWについても語るのだった。

 『ダルマバムズ』は、スナイダーが仏教を学ぶために日本に渡るところで終わる。そして、やがてケルアックの『路上』がベストセラーになり、1960年代の初頭に日本でも翻訳され、新宿のふーてんはスナイダーと交わり、日本にもビートが出現し・・・となったのだった。

Emerson  それよりずっと前のことだが、1830年代のアメリカはボストンに、「宇宙の本質、神と人間の内面とは究極的に同質のものだ」と主張するエマソンに代表される超絶主義が出現した。そして、この思想の背景には、東洋思想もあったという。

 エマソンの影響を受け、その思想を実践した人に、『ウォルデン、森の生活』で有名なヘンリー・デイヴィッド・ソーローがいる。ソーローは、メキシコとの戦争に反対して納税を拒否して投獄されThoreau るが、ずっと後に、インド人のガンジーは、ソーローの市民不服従の思想に影響を受けて、非暴力と不服従を実践した。

 さらに1960年代のアメリカにおける公民権運動では、その指導者であったマーサー・ルーサー・キング牧師は、ガンジーの影響を受けて非暴力と不服従を実践し、その後、ポスト・ビートゼネレーションのヒッピーたちは、禅やインド哲学にふれながら、”Love & peace” を実践したのだった。

 アメリカは、ヨーロッパに生まれた合理主義と啓蒙思想を建国の理念とし、個人主義と自由主義、経済的には市場主義の国である。しかしそこには、理念の実践とあわせて、建国の原点であるコミュニティへの自家撞着と、対抗運動が常に生起してくる。

 100年前に鈴木大拙がやろうとしたことは、西洋合理主義思想と東洋思想との調和であり、スナイダーやビートがやろうとしたことも、またそうであっただろう。それは、現在世界中ですすみつつある近代主義的理念の普遍化を背景とするグローバリゼーションとは別の、もうひとつのグローバリゼーションの追求であり、100年以上の昔から試みられているのである。

439333242309  最近、西垣通著『情報学的転回―IT社会のゆくえ』(2005年春秋社刊)という本を読んだ。著者は、IT技術者からスタンフォード大学に留学して研究者をやっている多才な人であるが、アメリカがパソコンやインターネットを生み出す背景には、ユダヤ・キリスト教的な一神教による進歩思想があると言う。そして、自由競争と適者生存を是とする市場経済と情報化、グローバリゼーションの進展は、人々のコンピューターへの隷属、格差社会化やニート、フリーターから、進歩思想の武力によるおしつけまでも生み出していると言う。

 そして著者は、一神教的な進歩思想を根底から批判する論理を、以下のように求めていく。
  「ユダヤ=キリスト教文明を相対化できる思想なり社会哲学なりは、いったいどこにあるのか。あるいはどうすれば構築できるのか」(P235)。
 「対抗軸として、いま私がもしや期待できるかもしれないと思っているのは、古代インド哲学です。ヴェーダーンタ哲学、ウパニシャッド哲学ともいいます。古代インド哲学というとわれわれに縁遠いようだけれど、仏教もヒンドゥー教もこの流れから出ているわけです。巨大な宗教潮流です。・・・」(P236)
 「ユダヤ=キリスト教というのは、繰り返し言うように、生命を外側から眺めています。ところが古代インド哲学は逆に、生命を内側から眺めているように思われます。世界がブラフマン(梵)という、根本原理というか、汎意識みたいなものによって満たされていて、ジーヴァという生物の魂はその部分的投影みたいなものであるわけです。
 ところで生命システムを内側から眺めるというのが、オートポイエーシスの発想です・・・」(P237)。
 「ブラフマン(梵)はあらゆるところに遍在する意識というか、宇宙原理です。一方、われわれ一人ひとりのなかにあるのが、アートマン(我)です。ところで、ブラフマンとアートマンとは実は一致している。実は重なっている。梵我一如というわけです。古代インド哲学や仏教などは、そういうことを言うわけです。
 生命流という発想は、こういう考え方とも通じると思います。生命体が世界をそれぞれのやり方で認識する。それらの重なりとして宇宙が存在する。・・・これが生物を内側から眺めるということなのです。・・・」(P238)
 「オートポイエティック・システムである「心」においては、思考が自己循環的に生み出されていく。過去に基づいて今の思考がっくり出されるのです。仏教の識別作用もこれに近いのではないでしょうか。
 ユダヤリキリスト教が生んだものが近代科学です。近代科学の中からオートポイエーシスという考え方が出てきたのですが、それがもう一つの普遍思想である古代インド哲学とか仏教と共鳴してくるというのは、とても面白いことですね」(P239)。

 以上、もうひとつのグローバリゼーションの直近の展開であり、私がこのブログで書こうとしているモチーフも、ひとつはそこにあるのだ。

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