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2006年4月18日 (火)

労働運動とヒンドゥー教

 先週末で、この2ヶ月間やってきた24時間営業の外食チェーンでの深夜パートを辞めた。寒かった冬をとりあえずはしのげたし、これをやっていると他のことが何もできそうにないし、そうなると、やりたいことをやろうとせっかく会社勤めを辞めたのに、本末転倒になってしまうからだ。

 辞める前のある日、社員の若者と話していたら、「この1ヶ月の間、1日でも休める社員は一人もいません」とのことだった。24時間365日営業のシステムの下に、マニュアルどおりの24時間仕事。現場の人手不足は店長(=社員)の責任で、社員(=店長)は自らそれを補うしかない。絵に描いたような、語るもなつかしい「疎外された労働」で、今時こんなロボットみたいな労働があるのかと驚かされた。

 この会社は一部上場で、かたちだけの「ユニオン」はあるものの、それは労働組合を作らせないためだけの「会社と一体になった気持ちの悪いユニオン」で、労働組合としての実態はない。その上、会社の運用システムがカルト的に作用しているのか、社員は会社にモノを言えずに、耐えるか、辞めるかの選択しかなく、辞めていく人も多いとのことだった。

 コスト削減をしなくては競争に負けてしまうという小泉流、「下流社会」流の強迫観念と、プアなマネジメントが、誰も幸せになれないどころか、働く者を不幸にする企業と職場を蔓延させつつある。

 この現場は24時間ほとんどパートだけで回っていて、パートの時給は細かく別れていてパート内が階層化されている上に、パートの会社への不満は、現場の社員に向けられる。また、社員同士も同じ現場で仕事を共有することがないから、かつて生産現場にあった働く者同士の「労働社会」が形成されることもない。

 社員の若者と話をしていて、私にも彼らと同じ年代の息子がいるので身につまされて、「(ほとんど休めないことなど)社員同士で話し合って、会社と交渉してみたら。私は若者の雇用をサポートするNPOをやっているし、労働組合にも通じているから、いつでも相談にのるよ」と、つい老婆心してしまった。

 もし彼らに会社と交渉する気があるのなら、もう少し付き合ってもいいかなとも思ったのだったが、最後の日に、社員の若者は私と顔を合わせることはなく、「危ないオヤジ」だと敬遠されたのかもしれなかった。いずれにせよ、「天は自ら救う者を救う」しかないのであるが、今の若者にとって「正社員」というカルト的呪縛からの自力による解放は、難しそうであった。

 来週からは、近所で週3日間だけパート仕事をする予定でいる。3日連続でパート仕事をして、あと4日間はフリーするわけである。ダルマ舎のDTP仕事と読書とモノ書きと、それに時々はプチ放浪などしようかと考えている。

 昨日は、久しぶりに千住関屋町のNPOの事務所に行った。行きがけに労金で金をおろして、石井さんに半年分の家賃を前払いし、メンバーが5人集まったので、6月にやるシンポジウムの打合せなどした。それから、千住大橋から京成線に乗って上野に出て「労働情報」の事務所で「グローバル研究会」を行った。

Hindho  この「グローバル研究会」は、労働組合のオルグが中心になって6年前に始めて、当初はグローバリズムの勉強をしていたのだったが、2~3年前からはイスラム教、儒教、ヒンドゥー教などの宗教を勉強している。なぜまた宗教なのか、私にはよく分からなかったのだったが、昨日オルグの人と議論をしていて分かったのは、「宗教が理解できないと、労働組合もできない」というようなことであった。私の多少の誤解の後、労働組合の世界は合理主義的な認識では割り切れない世界であり、労働運動の現状をふまえて、宗教からも学びながら、そこをなんとかしようとするオルグの熱意だけは分かったのだった。

 思えば、フリーターしているのもたいへんだが、正社員しているのもそれ以上にたいへんな時代である。仕事するとは修行なのか、人生とは苦行なのか、あるがままの世界との一体化、私をなくすることはできるのか・・・、ヒンドゥー教の世界は、広く深いのだった。

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