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2006年3月27日 (月)

森嶋通夫『思想としての近代経済学』

econmic  森嶋通夫氏の『サッチャー時代のイギリス』と『思想としての近代経済学』(1994年岩波新書)を再読して思うことは、前者の場合、この間の小泉政治を見せられた後でのその内容のリアリティであり、後者の場合、前に書評した大内秀明先生の『恐慌論の形成』を読んだ後での共通性である。
 どういう共通性かと言うと、経済学をBird’s eye view でより総合的に総括しようとする視点である。森嶋通夫氏と大内秀明先生は、経済学上の立場は異なるが、それぞれの視点から自らの立場とは異なる経済学をトータルに位置づけようとしている。

 それぞれの経済学上の立場を大雑把に分ければ、森嶋通夫氏はワルラス系、大内秀明先生はマルクス系となるが、実はリカードとマルクスとワルラスはつながっているのだと、森嶋通夫氏は以下のように書いている。

 「リカードこそは近代経済学の父ということができる。・・・マルクスは、自主独立だという人も多いが、私はリカードとマルクスは理論的に非常に似ていると考える。したがってリカードが近代経済学者ならマルクスもまた近代経済学者である。マルクスは、リカードの労働価値論を祖述展開したが、ワルラスはリカードも認めた希少性の理論を発展させた。多くの人はリカードとマルクスの関連性を認めても、リカードとワルラスの関係は認めず、ワルラスは限界革命を起こして全く独立の学派を形成したと考えられている。
 しかしリカードの差額地代論と、ワルラスの希少性理論はエッセンスにおいて変わりないし、しかもリカードは差額地代論において限界分析を使用している。その上、ワルラスの『純粋経済学要論』の結論――後述する「発展しつつある経済における価格変動法則」――は『経済学と課税』におけるリカードの結論に酷似している。よく知られているように、マルクスもまたリカードの影響で同様の結論を出している。だから私は、マルクスとワルラスを対立して考えるよりも、リカードを含めた三者を近代経済学の第一世代(原始あるいは創設期の近代経済学者)と考えた方がよいと思っている。
 このように考えるならば、近代経済学は次のように発展したことになる。リカードには二人の偉大な後継者があった。それはマルクスとワルラスである。・・・いわゆる「近代経済学学派」が継承しているのは、ワルラスに始まる学風である。これら二つの学派は、100年以上にわたる対立、緊張関係の結果、かなり違ったものに変質したが、マルクスとワルラスという原始に遡れば、両者は酷似しているのである。 このことは彼らの市場観を見てもわかる」(『思想としての近代経済学』p3-p4)

 私はワルラスについては不案内であったが、ワルラスも当初は社会主義を志したという。森嶋通夫氏は以下のように書いている。

 「マルクスより16歳若いワルラスが、マルクスと同じく社会主義に取りつかれたのは決して偶然でなく、時代精神のなせる業であるのかもしれない。しかし時代精神とは一色ではない。しかもフランスの時代精神はドイツのそれとは異なる。マルクスがヘーゲル哲学に深く影響されていたのとは違い、ワルラスはダランベール、ラグランジュ、ラプラス等の天文学や力学での業績を深く尊敬していた。・・・しかし彼の社会主義は、当時流行の社会主義と、中味が非常に異なっていた。彼にとっては、マルクスのように、労働者を資本家の搾取から解放することは、それほど重要でなかった。彼の社会主義は産業の国有化でなく、土地の国有化であった」(p27)

 「働かなければ生きてゆけないワルラスは、・・・妥協しなければならなかった。こうして彼は「科学」と「社会主義」を切り離し、1874年出版の『純粋経済学要論』(以下『要論』と略称)では、経済学は純粋理論(純粋経済学)と応用経済学と社会経済学に三分割されるべきだと宣言した。・・・このような科学的分析と価値観を分離して考えるという思考様式は、約30年後に、マツクス・ウェーバーによって、ドイツ歴史学派経済学への批判として提示されたが、同じ考え方が、価値感情の強烈なワルラスによって、自分の経済学の保全策として主張されたのである」(p29-30)

 「彼は当時のフランス経済の状況にかんがみて、経済活動の自由が保証された完全競争経済のモデルを純粋理論の原型にとった。しかしこのことは、彼が何も、自由放任を礼讃したのでも、是認したのでもない。現実の経済を分析してゆく上で、このような理論モデルが、一番適切であると考えたからである」(p31)

 「純粋理論は現実を観察し、それに適合するような理論的モデルをつくるが、その際モデルの構成要素をなす諸概念は、現実の実物そのものでなく、実物の一面ないし数面を定式化したものである。それは他の面を無視した理想型の抽象的概念である。経済理論が想定する資本家、労働者、地主、企業者も、彼らが出会う市場や企業も、すべて理想型である。それゆえ理論的に組み立てられた経済システムも、もちろん理想型である。経済学者は現実を観察することによって、どのような理想型モデルが適切かを知るのだが、不適切と判定すれば、理想型に修正を加え、モデルを変えなければならない。いったんモデルが確定すれば、あとは合理的推論でモデルの運動の仕組みを探索する。これが経済分析だが、このような分析が可能なのは、モデルが理想型であるからである。ワルラスが「発展しつつある社会の価格変動法則」を導出しえたのも、理想型を使って分析をしたからであり、「理想型」概念化以前の記述的学問からは、どんな法則も引き出しえない。
 こう考えれば、理想型概念の意識的使用と、価値判断と科学的推論の分離は社会科学の基本である」(p35-36)

 以上を読むと、マルクスがイギリスの資本主義社会を理念化して純粋資本主義理論をつくったように、ワルラスは当時のフランス経済から彼の純粋理論をつくったことが解る。そして森嶋通夫氏は、経済学と言う学問とはそういうものだと言う。この立場は、大内先生が『恐慌論の形成』に書かれた純粋マルクス経済学としての宇野経済学の三段階理論に共通している。
 森嶋通夫氏は、「私は、主義と学問を不可分と考えるマルクス経済学者は近代経済学者と認めない。これは 彼ら自身が希望するところでもある」(p11)とも書かれているが、森嶋通夫氏一流のアイロニーであろうか。

 以下、森嶋通夫氏は、マルクス、ウェーバー、シュンペーター、パレート、ミーゼス、ケインズと、近代経済学の諸潮流をトータルに鳥瞰するのだが、ここでその全てを評するのは私の手に負えないので、以下省略する。
 森嶋通夫氏の言わんとすることを本書の序章に見れば、以下の通りである。

 「リカードは主著『経済学と課税』の序文において、「供給はそれ自身の需要をつくる」というセイの販路法則を、極めて重要な法則と評価し、それを自分の経済学でも使用した。・・・現実の経済ではセイ法則が成立しない。需要が供給より少ない(多い)場合には、供給が減らされ(増され)、供給が需要に適応するのである。すなわちセイ法則の逆が成立する。それゆえ需要が少ない時には、生産は沈滞し、失業が生じる。経済学者が容易に成立すると考えた完全雇用は、需要が充分に大きい異常事態の他は成立せず、反セイ法則下の現実の経済では、失業が存在するのが常態である」(p8)
 「サッチャー時代には「価格機構」(price mechanism)を信じる自由放任派が、近代経済学の中で勢力を持つようになった。産業革命後とはいえ、まだ本格的な機械が現われていないアダム・スミスの時代には「価格機構」は有効に機能した。しかし経済に占める機械(したがって耐久財)の比重が大きくなるにつれ、「耐久財のディレンマ」がますます大きい障害となるようになり、それと共にセイの法則はすっかり現実離れしてしまった。こうして現実の経済は「価格機能」が完全には働かない経済に転化したのである。現実の経済が、すっかりスミスのパラダイムの圏外に移動し去ったのは、産業革命およびそれ以後の技術発展によるのだが、このことを認識せず「見えざる手」を信じたサッチャーの経済政策が不成功に終わったのは理の当然である。こうして経済学者は再びケインズの問題-なぜ価格機能が不完全なのか、価格機能にはどういう補強が必要か-を考えねばならなくなった。この事実は、技術の発展に応じて、経済が変化し、その結果、経済法則もまた変化することを如実に示している」(p10-11)

 森嶋通夫氏の『思想としての近代経済学』と大内秀明先生の『恐慌論の形成』に共通することをもうひとつ見つければ、それは両者とも70歳を過ぎたところでそれらの本を出されていることである。おかげで私たちは、両先生が膨大な経済学書を読まれて推敲して発見されたことを、わかり易く解説されてコンパクトに学ぶことができる。70歳を過ぎて、学者としてこれらを書き残そうという思いも共通していたのだろうと思われる。

 森嶋通夫氏は、本書を出された次の年に『日本の選択』(1995年)を出されて、そこで「アジア経済共同体」「アジア合衆国」を提起され、小宮隆太郎氏と論争をした。かつて大阪大学にいた時も同僚の教授たちとそりが合わなかったのか、1968年にイギリスに渡った。1976年には文化勲章を受章し、ノーベル経済学賞の候補にも何度か名前があがった「数々の奇人変人伝説を持つ孤高の経済学者」であったが、残念なことに一昨年に亡くなられた。
 先の私のブログのコメントに、大内先生は80年代にイギリスに遊学していた時に、ロンドン郊外に森嶋通夫氏を訪ねて、サッチャーリズムについて議論されたと書かれているが、「アジア共同体」についての議論も聞きたかったものである。

 私の父は、森嶋通夫氏と同じ年の生まれで、学徒出陣して、共に海軍の通信学校を出た後、長崎の大村航空隊に赴任したという。父は暗号を解くのが得意だったと自慢していたが、森嶋君にだけはかなわなかったとも言っていた。戦後、父は外資系の会社に働き、ロンドンに行った時には森嶋通夫氏を訪ねたり、また森嶋通夫氏が朝日新聞社から本を出版された時には、その出版記念会に招待されたりもしていた。
 
 海軍の国内最前線であった大村航空隊で通信将校をしていた森嶋通夫氏は、多くの特攻隊、とりわけ沖縄に向かった戦艦大和や、沖縄戦での通信をやりとりしたという。『サッチャー時代のイギリス』で、サッチャーの起こしたフォークランド紛争に対して、「国際紛争を戦争で片付けるのが19世紀のやり方なら、紛争を戦争に持ちこまないのが21世紀のモラルである。この意味では「正義」のためを標榜したこの戦争は、時代錯誤の戦争であった。英軍が敵味方の死傷率を極小にするように手を尽しだのが唯一の救いである。その点ではベトナム戦争の逆だが、それでも大勢の若者が、希望も抱負も実現できずに死んだことには変わりはない」(p95)と批判した時に森嶋通夫氏の胸にあったのは、かつて学徒出陣して帰らぬ人となった多くの学友たちのことであったのだろうか。

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コメント

 平山君、貴兄の父上と森嶋さんが軍隊生活でご一緒だったとは、初耳でした。森嶋さんの理解には不可欠ですね。有難う御座いました。ついでにリカード―マルクスについての森嶋説に触れさせてください。マルクスはロンドンに亡命後1850年代に「経済学批判要綱」、『経済学批判』を発表、しかし60年代に入り『剰余価値学説史』を書いた。そこでリカード地代論と限界原理を本格的に検討、限界原理を利用し、「資本の絶対的過剰生産」を明らかにし、恐慌の必然性の解明に成功した。『恐慌論の形成』です。
 拙著の狙いの一つは、リカード地代論ーマルクス地代論・限界原理ー恐慌の必然性の解明にあります。森嶋説と拙著『恐慌論の形成』とは、以上のような繋がりもあるのです。 
   

投稿: 大内秀明 | 2006年3月31日 (金) 11時36分

大内先生、ひとつ質問です。
大内先生の限界原理の理解のきっかけに、大内力先生からの教えなどはあったのでしょうか?
以前に先生とサンフランシスコに行って、ついでにスタンフォード大学を見物に行った時に、先生は「リキさんはここで何をべんきょうしたのだろうか」とおっしゃっていましたが、大内力先生がアメリカで学ばれたのは、リカードなどではなかったのでしょうか?
これは全くの私の推測ですが、そうであれば、宇野経済学と近代経済学は、そこで接点を持つように思うのですが。

投稿: ダルマ舎 | 2006年4月 6日 (木) 20時14分

ご質問ですが、勿論大内力先生が1957-8年ごろ書かれた『地代と土地所有』のリカードの限界原理、収穫逓減、市場価値の考え方を継承しています。その点は、拙著『恐慌論の形成』のp187の注10,11に書いてあります。ご参照下さい。拙著では、大内力説を「資本の絶対的過剰生産」に適用したのですが、この考え方は、かなり以前から持つていました。ただ、学説史的アプローチなので、スミスやリカードに遡り、マルクスの研究過程を追体験しながら今度明確にしました。これで森嶋先生の仕事とともに、マル経と近経のの接点がハッキリしたと思うし、ささやかながら小生の学会への貢献かと思っています。
 ただ、近経の一般均衡論との違いは、マルクスは「絶えざる不均衡のなかの均衡」だし、宇野・大内力説は、この不均衡的均衡が周期的恐慌を含む景気循環により実現される点が、『資本論』の純粋資本主義の抽象における均衡論です。複雑系、批判的実在論、更に格差論まで、新古典派市場原理への批判のあまり、純粋資本主義や恐慌論が忘れ去られるのは嘆かわしい限りです。
 尚、大内力先生のリカード限界原理の受容は、スタンフォード以前だったように思います。

投稿: 大内秀明 | 2006年4月10日 (月) 20時57分

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