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2006年3月27日 (月)

エドワード・ベラミー『かえりみれば』

 パート仕事が3連休であったので、4月発行のDTP仕事を仕上げると、残りの時間でブログを書きまくった。 気がつけば、桜も一斉に咲き出した。やっと春になったか、というところである。

 エドワebード・ベラミー『かえりみれば(Looking Backward)』は、1888年に発表されたアメリカ版のユートピア小説である。私は大内先生から言われるまで、ベラミーについては何も知らなかったのだが、この間、市場経済やNPOのルーツやコミュニティの在り方について勉強しようと、昨年のトクヴィルの『アメリカの民主主義』に始まり、主にアメリカとイギリス関連について読書してきて、ちょうど19世紀の半ばくらいまでのアメリカとイギリスの社会について読んできたから、19世紀後半のベラミーを知ったのは、いいタイミングであった。

 日本の左翼には、アメリカとイギリスは評判はよくない。アングロサクソンが市場経済の生みの親だし、アメリカは社会主義的には不毛の地だし、イギリスの社会主義もマルクス主義的ではないからであろうか。それに、現在のブッシュ政権に代表されるアメリカの現実とイメージがある。

 しかし、市場経済に対抗するのに、非市場経済を対置するだけでは市場経済に敵わないのは、これまでの社会主義を見てもはっきりしている。市場原理をいかにコントロールするのかというのが、現実的な道であり、イギリスの道は大いに参考になるというのが、この間の読書の結論である。森嶋通夫氏的には、演繹法(合理主義)による「狭い経済学」と、帰納法(経験論)による「広い経済学」の総合化が必要であるということである。

 ベラミーを読むことになった背景には、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』がある。マルクスの『資本論』に学んだモリスが書いたユートピアは、ユートピア実現のきっかけに多少のデモなどあったとされていても、基本的には暴力革命によるものではない。ユートピアが産業社会的であるか、農村社会的であるかを別にすれば、ベラミーの描くユートピアへの道も平和的なものとされている。おそらく民主主義、議会主義を通じた平和的な移行とされているのだと思うが、これは日本の労農派的な平和革命路線にもつながっているかもしれない。

 それでも、ベラミーがユートピア小説を書いた背景には、19世紀後半の興隆するアメリカ資本主義、むき出しの市場原理主義の現実と、イギリスの産業革命期と同様な、周期的な恐慌と、そこにおける労働者階級の救いのない状況があったのだと思われる。『かえりみれば』の書き出しにある、車に乗った勝ち組と、その車の綱を引く苦力のごとき負け組みとの対比の比喩を読めば、競争社会における多数の負け組みの状況と、現在また再生されようとしている市場原理社会の在り様がよく分かる。小説の中で、2000年の社会において評価されている作家がチャールズ・ディケンズであるとされているのも、むべなるかなである。

 かつて、若き賀川豊彦はベラミーに感激して、ベラミーの娘を訪ねたというが、現在の日本でベラミーが読まれない、評価されないのは何故であろうか。ベラミーの描いたテクノクラートによる産業主義的なユートピアの在り方が好まれないということがあるかもしれない。それともうひとつ、日本人的には賀川豊彦もそうだが、ベラミーもあまり左翼的でないこともあるかもしれない。

 ベラミーの描くユートピアは、共産主義社会である。しかし、ベストセラーになった『かえりみれば』は、多数の読者を「愛国者(nationalist)クラブ」に参加させたという。ベラミーにとっては、ユートピアとナショナリズムはつながっていて、ナショナリズムの実現は、共産主義的ユートピアの実現であった。20世紀の初頭、アメリカにはIWW(世界産業労働組合)という、サンジカリズムを基調にした過激な労働運動の興隆があったが、IWWの争議では、赤旗ではなくて星条旗が振られたという。要するに、アメリカにおける異議申し立ての背景にあるのは「建国の精神に帰れ」ということなのである。建国時にあった平等で民主的なコミュニティこそが、アメリカ人にとってはユートピアに近いものなのではないかと予想させるところがある。私がトクヴィルの『アメリカの民主主義』を読んだのも、そんな気がしたからである。

 話がそれるが、イスラムの原理主義者が夢見るイスラム的ユートピアとは、イスラム教発足当時の聖職者を中心にした宗教的共同体であり、イスラム原理主義者たちは、そこへ還れと言っているのである。かつて日本のナショナリストは、資本家の横暴に対して農本主義を唱えた。3者に共通しているのは、むきだしの市場経済に対抗するのに、心のふるさと、原点回帰を唱えていることである。

 ベラミーについて、インターネットで検索していたら、「サンフランシスコ・クロニクル紙」の「独立記念日の社説」というのがあって、そこには「異義あり!」ということで、次のような内容であった。

 「9/11以来、ブッシュ大統領とアシュクロフト法務長官は、彼らの政策に反対し、人権と自由擁護をかかげる市民たちの愛国心を問い、かれらの意見を排斥してきた。しかし、それはたいへんなお門違いというものだ。「異義を唱えること」ほどアメリカ的なことはない。そして、アメリカ合衆国独立記念日の今日ほど、その歴史の再検討に適した日はないだろう。
 「異議申し立て」の伝統。イギリスに反対して革命を誘発したアメリカ植民者たちは、ボストン港に紅茶を投げ捨てただけでなく、イギリス王朝と貴族社会を否認する、共和国政府を創造した。トマス・ジェファーソンの輝かしい言葉で書かれた「独立宣言」は、「すべての人の平等」を謳ったばかりでなく、「政府が、その目的達成の障害になった場合は、市民が異義を唱える。」ことを奨励した。
 それに止まらず、「合衆国の父」たちは、憲法制定にあたり、補足第一条で、発言、集会、請願の自由を保証し、「異義を唱える」権利をわれわれに与えた。事実、「自由と平等」というメリカ合衆国の基本的理念は、当時の世界を眩惑し、その原理が侵害されたと感じた多数のアメリカ人に、「異義を唱える」インスピレーションを与えてきた。19世紀の奴隷制廃止論者や、婦人参政権論者が、その論拠としたのは、まさにこの基本的理念であった。・・・
 皮肉なことに、アメリカの愛国的な遺産を残した市民の多くが「異義あり!」と叫ぶ者たちだった。19世紀の終わりには、多数の誠実なアメリカ人が、自国の急速な産業発展に伴う、腐敗、貪欲、物質主義と個人至上主義を批判しはじめた。増大する経済的、社会的な不平等を憂慮した彼らは、アメリカン・ドリームである、「平等の精神」の維持を追求した。
 たとえば、1881年に、今使われている「忠誠の誓い」を書いたフランシス・ベラミーは、社会主義を奉じる編集者で、キリストを社会主義者と呼んだばかりに、ボストンの教会から追放された。彼のいとこのエドワード・ベラミーが書いたユートピア小説「Looking Backward」は、何千人ものミドルクラスのアメリカ人を鼓舞して「愛国者(nationalist)クラブ」に入会させた。・・・
 「異義を唱える」ことは、決して反愛国的ではない。「異義あり!」こそアメリカ流なのだ。独立記念日おめでとう!」(翻訳:風砂子デアンジェリス)

 この社説にあるように、アメリカではベラミーはまだ知られているようであるが、要するに日本では、この「アメリカ流」というのが、よく理解されていないのではないかというのが、アメリカ型と称されるNPOへの誤解にもつながっているように思われる。 

 それから、もうひとつ気づいたことがある。インターネットでベラミーを検索すると、日本の大学でベラミーをやっているのは、文学部というよりも都市工学みたいなゼミであったりして、これはユートピアというのの中心には、フーリエでもオウエンでも、いつも壮大な建築物が構想されているせいなのかもしれない。これは、産業化の初期においては、住宅ほかインフラから食品販売にいたるまで、行政や他の民間セクターは未発達であったから、せいぜい資本家が工場の周辺に自ら貧弱なそれを用意していたせいだからではないかと思われた。だから、その時代のユートピア的コミュニティは、せいぜい数千名規模だが、その中心に壮大な建築物を共有する相互扶助的な社会として構想されたのであろう。ロバート・オウエンの協同組合の店舗というのも、その中に位置づけられている。そして、それよりも工業化のすすんだ時代のベラミーの場合は、ボストンという都市の規模でそれが構想されており、モノを購入する場は近代的なスーパーのイメージである。

 では、ポスト産業化とグローバル化のすすむ現在、構想されるコミュニティとは何か? ちょうど1年前にロバート・オーエンを読み出し、それからトクヴィル、アダム・スミス、ディケンズ、ベラミーなどなどを読んできて思うのは、community(共同体)と corporation(企業)と society(社会)は、一体的に生成していくもので、それと市場経済とを、どう折り合いつけるのかということである。21世紀型のコミュニティというのは、いきなりグローバルなものというよりは、SOHOやスモールビジネス、コミュニティビジネスで成り立つスモールコミュニティをベースにした社会が、より広いリージョナルな共同体を構成するというイメージであるが、いかがであろうか。

 さて、私は最近深夜のパート仕事をしているのだが、いっしょに働く同僚は、ほとんどが同年代のオヤジである。その中に、アメリカの大学を出て、ニューヨークで30年間仕事してきたというオヤジがいたので、本当かなと思って「ベラミーを知っていますか」とたずねたら、「エドワード・ベラミーのこと? 何であんたそんなの知ってんの?」と逆に怪訝な顔をされ、さらに「どうせ読むなら原書で読まなきゃ」と言われてしまった。
 このオヤジは、30年間アメリカで稼いだ金で、90年代に日本で不動産投資をしたら、バブルの崩壊で借金をつくってしまったとのことであった。深夜のパート仕事の世界で働くオヤジたちの世界には、たいへんディープなものがあるのだった。

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森嶋通夫こぼれ話

 かつて父から聞いた森嶋通夫氏の逸話をひとつ思い出したので、ついでに書いておく。

 海軍の大村航空隊にいた時、航空隊の基地は広いから、移動には自転車を使ったそうである。頭脳明晰にして高等数学に強い森嶋少尉ではあったが、運動神経だけはだめで、自転車に乗れなかったそうであった。そこで自転車に乗る練習をしていたある時、やっとの思いで自転車をこいでいると、兵隊たちが行軍してきて、森嶋少尉を見つけると一斉に敬礼したそうである。敬礼をされると返さなくてはいけないので、答礼のために手を離した瞬間、自転車が転んでしまって、父は大笑いしたそうである。

 それともうひとつ、海軍だから泳げなくてはいけないのだが、森嶋通夫氏は泳げなかったそうである。入隊して海兵学校の水泳訓練で、小舟から海に放り出された森嶋訓練生は海水をガブ飲みし、その晩は夕飯が食べられなくて、その分を父が食べたそうであった。

 これは森嶋通夫氏の自伝的エッセイなどどこにも書かれていない話である。これらの話をする時の父は、遠くを見るような目をして、実に楽しそうな顔をしていた。

 もうひとつ、5年前に父が「自分史」の本を自費出版したが、そこには以下の森嶋通夫氏についての記述があるので、これも記しておきたい。

 通信学校の時隣席に居た森嶋通夫少尉は大村航空隊の暗号士として勤務していた。真面目な性格の彼は他の士官が好んで行く料理屋遊び等には興味なく、隊務終了後は航空隊のそばに借りていた下宿に行って読書したり、通信科教官室に残って暗号の研究に没頭していた。或る夕方大村空から出る士官バスを利用しようと思い大村航空隊迄歩き、ついでに電信室に森嶋少尉を訪ねた。彼は丁度良い時に来た。一寸付き合えと言って通信科教官室に連れて行かれた。そこで彼は最近考案している暗号について説明を始めた。頭脳明晰で高等数学にも優れている森嶋は、現在使われている呂暗号に飽き足らず、更に使い易く硬度の高い暗りの改良に苦心していた。彼の考案したストリップ式の暗号板はこれ迄の暗号の欠点を修正したものであった。試作品は既に兵隊を使って実験し相当の成果を挙げているとのことであった。私はその晩の外出を諦め彼に付き合うことにした。森嶋の説明する要点は大体納得出来たが、さて実用に供するとなると種々の問題点が出て来るのではないかと思い森嶋に進言した。
 やがてこの暗号のことが通信長から大村空の司令の耳に入り、森嶋少尉は暗号改良意見具申のため軍令部への出張を命ぜられた。
 零式輸送機に乗った森嶋少尉は土浦経由横浜迄行き、当時根岸の競馬場跡に疎開していた暗号関係を扱う軍令部の第十課に出頭した。そこで課長や通信参謀に彼の考案した暗号板の説明をした.課長は貴様の熱意や創意は高く評価する。但し時期がもう遅い。暗号書を変えるには各地に散在する部隊にそれを送らなければならない。しかし今の海車にはその力も手段もない。たとえ欠点があっても手持ちの暗号書で最善をつくす以外に方法はないと説得され帰って来た。
 八月のある日、
大村空に森嶋少尉を訪ねたことがあった。彼は一寸来いと旨って誰も居ない所に連れて行き、一通の機密電報のコピイを見せて呉れた。それは各地の航空燃料の在庫高を示したむので極めて機密性が高く、司令副長以外には見せられない軍機電報であった。私は在庫量の少なさに愕然とした。彼はこれでは戦争を続けて行くことは不可能だとはっきり断言した。尚但し書き事項として、今後航空燃料は本土決戦に備えて極力節約すること。訓練用燃料は特攻機の訓練以外には使用出来ないことが示されていた。何れにしても敗戦は時間の問題であることを自覚した。但し森嶋少尉の好意に報いるためにも、この内容は自分だけに秘め一切口外しないことに決め終戦迄これを守った。
 森嶋君は戦後京大阪大教授を経て英国に行き、ロンドン大学教授となり経済学者としての地位を獲得した。十数年前に文化勲章を受章、内外で幾多の著書を発刊した。一九九七年に来日した際築地の朝日ホールで記念講演をした。講演終了後朝日新聞松下社主(故人)の主催でパーティが催された。私もお誘いを受けロンドンでお会いした旧知の奥様にもお目にかかったが、朝日新聞の森嶋君に対する評価と信用は並々ならぬものがあることを知った。(平山浦生『私の生涯』より)

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森嶋通夫『思想としての近代経済学』

econmic  森嶋通夫氏の『サッチャー時代のイギリス』と『思想としての近代経済学』(1994年岩波新書)を再読して思うことは、前者の場合、この間の小泉政治を見せられた後でのその内容のリアリティであり、後者の場合、前に書評した大内秀明先生の『恐慌論の形成』を読んだ後での共通性である。
 どういう共通性かと言うと、経済学をBird’s eye view でより総合的に総括しようとする視点である。森嶋通夫氏と大内秀明先生は、経済学上の立場は異なるが、それぞれの視点から自らの立場とは異なる経済学をトータルに位置づけようとしている。

 それぞれの経済学上の立場を大雑把に分ければ、森嶋通夫氏はワルラス系、大内秀明先生はマルクス系となるが、実はリカードとマルクスとワルラスはつながっているのだと、森嶋通夫氏は以下のように書いている。

 「リカードこそは近代経済学の父ということができる。・・・マルクスは、自主独立だという人も多いが、私はリカードとマルクスは理論的に非常に似ていると考える。したがってリカードが近代経済学者ならマルクスもまた近代経済学者である。マルクスは、リカードの労働価値論を祖述展開したが、ワルラスはリカードも認めた希少性の理論を発展させた。多くの人はリカードとマルクスの関連性を認めても、リカードとワルラスの関係は認めず、ワルラスは限界革命を起こして全く独立の学派を形成したと考えられている。
 しかしリカードの差額地代論と、ワルラスの希少性理論はエッセンスにおいて変わりないし、しかもリカードは差額地代論において限界分析を使用している。その上、ワルラスの『純粋経済学要論』の結論――後述する「発展しつつある経済における価格変動法則」――は『経済学と課税』におけるリカードの結論に酷似している。よく知られているように、マルクスもまたリカードの影響で同様の結論を出している。だから私は、マルクスとワルラスを対立して考えるよりも、リカードを含めた三者を近代経済学の第一世代(原始あるいは創設期の近代経済学者)と考えた方がよいと思っている。
 このように考えるならば、近代経済学は次のように発展したことになる。リカードには二人の偉大な後継者があった。それはマルクスとワルラスである。・・・いわゆる「近代経済学学派」が継承しているのは、ワルラスに始まる学風である。これら二つの学派は、100年以上にわたる対立、緊張関係の結果、かなり違ったものに変質したが、マルクスとワルラスという原始に遡れば、両者は酷似しているのである。 このことは彼らの市場観を見てもわかる」(『思想としての近代経済学』p3-p4)

 私はワルラスについては不案内であったが、ワルラスも当初は社会主義を志したという。森嶋通夫氏は以下のように書いている。

 「マルクスより16歳若いワルラスが、マルクスと同じく社会主義に取りつかれたのは決して偶然でなく、時代精神のなせる業であるのかもしれない。しかし時代精神とは一色ではない。しかもフランスの時代精神はドイツのそれとは異なる。マルクスがヘーゲル哲学に深く影響されていたのとは違い、ワルラスはダランベール、ラグランジュ、ラプラス等の天文学や力学での業績を深く尊敬していた。・・・しかし彼の社会主義は、当時流行の社会主義と、中味が非常に異なっていた。彼にとっては、マルクスのように、労働者を資本家の搾取から解放することは、それほど重要でなかった。彼の社会主義は産業の国有化でなく、土地の国有化であった」(p27)

 「働かなければ生きてゆけないワルラスは、・・・妥協しなければならなかった。こうして彼は「科学」と「社会主義」を切り離し、1874年出版の『純粋経済学要論』(以下『要論』と略称)では、経済学は純粋理論(純粋経済学)と応用経済学と社会経済学に三分割されるべきだと宣言した。・・・このような科学的分析と価値観を分離して考えるという思考様式は、約30年後に、マツクス・ウェーバーによって、ドイツ歴史学派経済学への批判として提示されたが、同じ考え方が、価値感情の強烈なワルラスによって、自分の経済学の保全策として主張されたのである」(p29-30)

 「彼は当時のフランス経済の状況にかんがみて、経済活動の自由が保証された完全競争経済のモデルを純粋理論の原型にとった。しかしこのことは、彼が何も、自由放任を礼讃したのでも、是認したのでもない。現実の経済を分析してゆく上で、このような理論モデルが、一番適切であると考えたからである」(p31)

 「純粋理論は現実を観察し、それに適合するような理論的モデルをつくるが、その際モデルの構成要素をなす諸概念は、現実の実物そのものでなく、実物の一面ないし数面を定式化したものである。それは他の面を無視した理想型の抽象的概念である。経済理論が想定する資本家、労働者、地主、企業者も、彼らが出会う市場や企業も、すべて理想型である。それゆえ理論的に組み立てられた経済システムも、もちろん理想型である。経済学者は現実を観察することによって、どのような理想型モデルが適切かを知るのだが、不適切と判定すれば、理想型に修正を加え、モデルを変えなければならない。いったんモデルが確定すれば、あとは合理的推論でモデルの運動の仕組みを探索する。これが経済分析だが、このような分析が可能なのは、モデルが理想型であるからである。ワルラスが「発展しつつある社会の価格変動法則」を導出しえたのも、理想型を使って分析をしたからであり、「理想型」概念化以前の記述的学問からは、どんな法則も引き出しえない。
 こう考えれば、理想型概念の意識的使用と、価値判断と科学的推論の分離は社会科学の基本である」(p35-36)

 以上を読むと、マルクスがイギリスの資本主義社会を理念化して純粋資本主義理論をつくったように、ワルラスは当時のフランス経済から彼の純粋理論をつくったことが解る。そして森嶋通夫氏は、経済学と言う学問とはそういうものだと言う。この立場は、大内先生が『恐慌論の形成』に書かれた純粋マルクス経済学としての宇野経済学の三段階理論に共通している。
 森嶋通夫氏は、「私は、主義と学問を不可分と考えるマルクス経済学者は近代経済学者と認めない。これは 彼ら自身が希望するところでもある」(p11)とも書かれているが、森嶋通夫氏一流のアイロニーであろうか。

 以下、森嶋通夫氏は、マルクス、ウェーバー、シュンペーター、パレート、ミーゼス、ケインズと、近代経済学の諸潮流をトータルに鳥瞰するのだが、ここでその全てを評するのは私の手に負えないので、以下省略する。
 森嶋通夫氏の言わんとすることを本書の序章に見れば、以下の通りである。

 「リカードは主著『経済学と課税』の序文において、「供給はそれ自身の需要をつくる」というセイの販路法則を、極めて重要な法則と評価し、それを自分の経済学でも使用した。・・・現実の経済ではセイ法則が成立しない。需要が供給より少ない(多い)場合には、供給が減らされ(増され)、供給が需要に適応するのである。すなわちセイ法則の逆が成立する。それゆえ需要が少ない時には、生産は沈滞し、失業が生じる。経済学者が容易に成立すると考えた完全雇用は、需要が充分に大きい異常事態の他は成立せず、反セイ法則下の現実の経済では、失業が存在するのが常態である」(p8)
 「サッチャー時代には「価格機構」(price mechanism)を信じる自由放任派が、近代経済学の中で勢力を持つようになった。産業革命後とはいえ、まだ本格的な機械が現われていないアダム・スミスの時代には「価格機構」は有効に機能した。しかし経済に占める機械(したがって耐久財)の比重が大きくなるにつれ、「耐久財のディレンマ」がますます大きい障害となるようになり、それと共にセイの法則はすっかり現実離れしてしまった。こうして現実の経済は「価格機能」が完全には働かない経済に転化したのである。現実の経済が、すっかりスミスのパラダイムの圏外に移動し去ったのは、産業革命およびそれ以後の技術発展によるのだが、このことを認識せず「見えざる手」を信じたサッチャーの経済政策が不成功に終わったのは理の当然である。こうして経済学者は再びケインズの問題-なぜ価格機能が不完全なのか、価格機能にはどういう補強が必要か-を考えねばならなくなった。この事実は、技術の発展に応じて、経済が変化し、その結果、経済法則もまた変化することを如実に示している」(p10-11)

 森嶋通夫氏の『思想としての近代経済学』と大内秀明先生の『恐慌論の形成』に共通することをもうひとつ見つければ、それは両者とも70歳を過ぎたところでそれらの本を出されていることである。おかげで私たちは、両先生が膨大な経済学書を読まれて推敲して発見されたことを、わかり易く解説されてコンパクトに学ぶことができる。70歳を過ぎて、学者としてこれらを書き残そうという思いも共通していたのだろうと思われる。

 森嶋通夫氏は、本書を出された次の年に『日本の選択』(1995年)を出されて、そこで「アジア経済共同体」「アジア合衆国」を提起され、小宮隆太郎氏と論争をした。かつて大阪大学にいた時も同僚の教授たちとそりが合わなかったのか、1968年にイギリスに渡った。1976年には文化勲章を受章し、ノーベル経済学賞の候補にも何度か名前があがった「数々の奇人変人伝説を持つ孤高の経済学者」であったが、残念なことに一昨年に亡くなられた。
 先の私のブログのコメントに、大内先生は80年代にイギリスに遊学していた時に、ロンドン郊外に森嶋通夫氏を訪ねて、サッチャーリズムについて議論されたと書かれているが、「アジア共同体」についての議論も聞きたかったものである。

 私の父は、森嶋通夫氏と同じ年の生まれで、学徒出陣して、共に海軍の通信学校を出た後、長崎の大村航空隊に赴任したという。父は暗号を解くのが得意だったと自慢していたが、森嶋君にだけはかなわなかったとも言っていた。戦後、父は外資系の会社に働き、ロンドンに行った時には森嶋通夫氏を訪ねたり、また森嶋通夫氏が朝日新聞社から本を出版された時には、その出版記念会に招待されたりもしていた。
 
 海軍の国内最前線であった大村航空隊で通信将校をしていた森嶋通夫氏は、多くの特攻隊、とりわけ沖縄に向かった戦艦大和や、沖縄戦での通信をやりとりしたという。『サッチャー時代のイギリス』で、サッチャーの起こしたフォークランド紛争に対して、「国際紛争を戦争で片付けるのが19世紀のやり方なら、紛争を戦争に持ちこまないのが21世紀のモラルである。この意味では「正義」のためを標榜したこの戦争は、時代錯誤の戦争であった。英軍が敵味方の死傷率を極小にするように手を尽しだのが唯一の救いである。その点ではベトナム戦争の逆だが、それでも大勢の若者が、希望も抱負も実現できずに死んだことには変わりはない」(p95)と批判した時に森嶋通夫氏の胸にあったのは、かつて学徒出陣して帰らぬ人となった多くの学友たちのことであったのだろうか。

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2006年3月26日 (日)

桜の花の咲くころ

cherry  低気圧も去って、桜の開花情報もちらほら、仕事も読書もそこそこ、気分はまあまあである。ベランダでコーヒーを飲みながら一服、見れば、眼下の東雲小学校の桜も開花直前である。

 日本の会社の年度始めは4月からで、フリーは別に4月でなくてもいいのだが、暖かくなると気持ちが前に動き出すというのは、やはり習性だろうか、新しいことを始めなくてはと思ったりするのだ。

 「ドロップアウト・カレッジ」が課題だが、どうも教授陣の反応が鈍い。とりあえずNPOとしては、中高年向けの企画として、「格差社会の中、働かなければならない中高年者」という真面目なテーマのシンポジウムを6月18日にやることに決めた。講師は、三上治(味岡修)という元ブンド系セクトのボスである。もっとも、私は彼の人選には反対したのだが、そうなってしまった。

ichihara  それから遊び企画で、4月19日に友人のジャズドラマーの市原康君のライブを企画した。場所は知り合いの浜松町のイタリアンレストランを借りるのだが、飲み放題ということもあって、参加費は8000円と高めになってしまった。忙しい最中、赤字にならにように人集めをしなくてはいけないのだが、まあ遊びだから、これは楽しい。市原康君のトリオは、ピアノが福田重男、ベースが森泰人と、豪華トリオである。

 それから今年こそ、ビート系リトルマガジンの『Heart Beat』の第5号を出さなくてはダルマ舎の存在理由がなくなると思っているのだが、ムロケンさん、セブンさん、JUNさん、大内先生、原稿よろしくお願いします。

yurikamome  reclaimedland にある我が家からは、玄関側の対面に晴海埠頭が見えて、大都会を背景にしてふじ丸が停泊しているのが見える。 その手前を、開通したばかりのゆりかもめが過ぎてゆく。やがて、お台場や埠頭公園の桜も満開になるだろう。

 サラリーマン生活の末期頃だったか、ふじ丸には、かつて一泊だけだが乗船したことがある。今は見ているだけだが、過ぎていく日々と、開花を待つ桜、新しい季節に少しだけワクワクするのである。
 
 ゆりかもめ 霞むふじ見て ゆく想い

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2006年3月19日 (日)

森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』

sattya  1月以降の仕事が回らず、スランピーでスカンピン=スカンピーな状態をなんとかしようと、2月の半ばから新たなパート仕事を始めて、そのせいでブログが滞りがちになってしまったが、新たなパート仕事にも慣れてきて、ダルマ舎仕事=DTP仕事も動き出し、三寒四温ながら、春の足音が感じられる今日この頃である。

 前回のブログは、エドワード・ベラミーを読み始めるところで終わり、その後ベラミーも読んだのだが、新たなパート仕事は深夜仕事で、生活のリズムがまだ不安定な上に、先週以来、深夜のパート仕事と昼間の取材仕事とDTP仕事の締め切り、さらに確定申告が重なって、どこからが1日の始まりでと終わりなのかが身体的に分からない状態となり、若干の睡眠障害もあり、コメントを書く余裕がなかった。

 人生を好きなように生きようと思えば収入に乏しく、食うために仕事すれば好きなことはままならない。挙句の果てに睡眠障害ではあるのだが、それならば眠くなるまで本を読もうということで本だけは読めて、まあ、これでいいかという日々でもあったのだったが、それでもなんとか一山越えて、やっとブログが書ける今である。

 さて、ベラミーの『かえりみれば』は読んだのだが、コメントを書く余裕と図書館に行く機会がない。早朝に深夜のパート仕事から帰って、一杯飲んで布団に入ると、眠り薬代わりに手持ちの本を再読したりしているのだが、森嶋通夫の『サッチャー時代のイギリス』(岩波新書1988)と『思想としての近代経済学』(岩波新書1994)を再読した。イギリスのサッチャーリズムを再現したこの間の小泉政治の今後と、規制緩和と市場まかせの市場原理主義的政策は、いかがなものなのかを少し勉強してみようと思った訳である。以下、引用が多いが、自分の読書ノートのつもりで書くので、ここから先は、関心があれば読んでくださいといったところであるのをお許しあれ。

 この間の小泉政治を見た後にこの本を再読すると、小泉首相がサッチャーリズムを再現しようとしているのだと、実にリアルにわかる。では、本家のサッチャー女史は、何を再現しようとしたのか、その経済政策には合理性や普遍性があるのかを森嶋通夫氏の『サッチャー時代のイギリス』に習えば、以下のとおりとある。

 「彼女は、ビクトリア時代の上層および中上層階級のきびしい家庭的躾を強調、礼讃した。彼女はまた自立心を鼓舞し心。彼女が復位させようとしているのは、このような質実で誇り高い禁欲的な家庭を基礎とし、その上に構築される自由私企業経済━━プロテスタントの倫理に支えられて競争的資本主義の精神を燃え立たせたマクス・ウェーバーの理想的初期資本主義経済━━以外の何ものでもない」(p70)
 このことを森嶋氏は「シュンペーター反革命」と呼ぶのだが、それは「「シュンペーター変換の逆を実現させる試み」であるという。

 「シュンペーターの書物は・・・対独戦が始まるまでのイギリスをモデルにして、その未来を読む形で書かれているから、サッチャーが彼とは全く独立に、「シュンペーター過程」と同じものを考えて、それを「イギリス病」として意識していたとしても、驚くに当らない。事実、知識人の左傾、企業者機能の衰弱、優秀な人々の企業離れ等のシュンペーター的道具立ては、すべてイギリスに極めてよく適合している。サッチャーがこれらのことを経験や観察から学びとり、独力でシュンペーターと同様の認識に達していることは、充分あり得ることである」(p67)
 「シュンペーターの変換と、サッチャーの試みる逆進は驚くほどよく似ている。ただ前向きか、後向きかの違いがあるだけである・まず第一に「私有財産としての企業」および「契約の自由」が、両者の理論や構想において、中心概念の役割を果している。そしてこれらの概念が完全に有効であったのは、「小企業」の時代であったと、シュンペーターもサッチャーも考える。まだ価格が価値から離れていなかった単純商品生産社会が、マルクス経済学者の心のふるさとであるように、完全競争経済が近代経済学者のふるさとである。そして夢のような、このような社会がかつて存在したかどうか━━おそらく単純商品生産時代同様、完全競争時代もまた、歴史上いまだかつて実現されたことはないであろう━━におかまいなく、シュンペーターもサッチャーもふるさとを思慕し、それはパラダイスであったと考えるのである(p68)。

 「・・各人の資質が平等で、各人が公平に幸運に見舞われるという非現実的な仮定が満たされない限り、サッチャーの夢は、たとえ実現されたとしても、すぐ破れてしまうような不安定な夢である。現実には、有能な人もいるし、能力の不足する人もいる。また自立心の旺盛な人もいるし、そうでない人もいる。さらに平等に訪れる好運は、もはや好運といえないから、好運は本質的に不平等である。そうするとこれらが、最悪のように組み合わさった人と、最良の組み合わせにあずかった人との間には大きい差が生じる。こうして「完全競争の社会」にも、富者と貧者が生じ、富者は彼らの富を集中させて大会社をつくり、大会社は再び小企業を押しつぶしはじめるであろう。すなわち、彼女の夢の世界にシュンペーターの変換過程が押し人って来るのである」(p71)。

 「シュンペーターの場合には、私がそうしたように、彼の革命すなわち社会主義化は、イギリスにおいて福祉国家の形でほぼ実現したと見ることもできるが・・・彼の最大の失敗は、サッチャーのような策略に富んだ強力な反革命の出現の可能性を無視した点にある。(p75)~なるほど、シュンペーター的には戦後にイギリスの労働党政権が始めた福祉国家政策は、すでに社会主義だったのである。

 「サッチャーのような強力な反革命の出現の可能性を無視したのは、マルクスやシュンペーターの失敗だが、歴史は行きつもどりつしながら、結局は社会の基幹部門は社会化━━たとえ私企業の手に残ったとしても、自由な利潤追求が許されないという意味で━━されるであろう。
 そのような段階でも私企業は数多く存在するから、そういう社会は社会主義社会というよりも、福祉国家と呼ぶ方が適切であろう。しかも私企業にも、資本主義初期に多く見られた、強力な企業主を中心にしたベンチャー精神の横溢した企業(サッチャーはこういう企業を復活させようとしている)と、株式面でも経営面でも社会化された大私企業の二種類が存在する。その他に国営企業がある。・・・
 これら三種類の企業を適材適所に配置し、その基盤の上に魅力ある社会主義(ないし総合福祉計画)を実現するのが、今後の課題であるべきだが、労働党が、その左派のように、極端な国営企業化に固執したり、保守党が、サッチャーのように何でも彼でも私企業化しようとする場合には、経済は綱引きのように、右と左の間を何回も行きつ戻りつするであろう。そうしてそういう期間が長ければ、惨憺たる被害が生じるであろう。このことは、まさに、二大政党制こそが「イギリス病」の有力な原因であることを物語っている」(p111)

 「人間の生活はすべての面で合理的であるのではない。・・・元来は会社経営に適用されるべき効率主義を、元来は効率主義で運営されるべきでない分野にも適用するとなると、社会は干からびた、かさかさしたものになってしまう。・・・効率主義や利潤原理の適用には限界があり、限界外ではそれは他の原理に従属するか、それともそれらと共存しなければならないのである」(p197)

 「物事は何ごとでも徹底すべきでない。・・・自由社会とは、価値観を異にする人が、互いに許し合って生きる場所でなければならない。いずれにせよ、日本人もイギリス人も、人類はじまって以来の高い生活水準を享受しているのだから、政府が経済至上主義に則って政治をするのは、間違っている。
 その上、利潤の原理は、利潤の正当性が証明されない限り、正当化されない。利潤が搾取の結果であるとか、幸運にもinnovations(新機軸)が成功したことの結果である場合には、利潤を獲得した個人ないし会社は、純利潤の一部ないし全額を、国家ないし公共機関に供出しなければならないであろう。したがって利潤に対して税金を支払うことは、利潤獲得者の義務である。今のところ、経済学には、利潤の全額を資本家の間で分け合ってしまうことを正当化する理論はないから、金持にとって納税は義務である」(p199)
 「ノウブレス・オゥブリージ(noblesse oblige)━━地位が高いほど、責任が大きい━━という徳目は、いまでは忘れ去られつつあるが、「ビクトリア時代に帰れ」を標榜するサッチャーの倫理教科書には、いまも生きていなければならない徳目の一つである」(p 200)

 「私自身は、イギリス病は必ずしも悪い病気であると思っていない。サッチャーがイギリスをそのような国にしようと思っている、無イギリス病の国は、日本と同様、別の眼から見れば、ある種の人たちを封じ込めてしまう一派独占の不健康な国であるだろう。幸いにして所得水準は高いのだから、「民主主義のコスト」を支払って、大勢の人が満足するような国をつくった方がよい。民主主義が二大政党制を必要とするのなら、政権交替に伴う足並みの乱れと、それに伴う経済の落込み━━「イギリス病」━━は必要経費である」(p214)
 
 「・・サッチャーが実現しようと思っている経済にふさわしいような精神(ethos)をイギリス人が持ち統けることができるかどうかが問題である。たしかにマルクスが言ったように、ある経済体制(たとえば資本主義)は、それに相応する文化(ブルジョア文化)や行動様式を生み出す。しかしまた逆にマクス・ウェーバーが言ったように、ある経済体制(資本主義経済)は、それを支持するような精神(例えばプロテスタントの精神)を国民が持っていなければ、生まれてこない」(p218)
 「サッチャーは子供たちを物質欲のあるように育て、物質欲を挺子として彼らを働かせようとしたが、消費水準が充分高くなった現在の子供たちには、それ以上の高い消費水準は大したインセンティブにならないであろう。それよりも子供たちは、生き甲斐を求めているのであり、新しい理想を捜し求めているのである。労働党がこのことに気がついて「新社会主義」もしくは新しい社会哲学を提示できるのなら、逆襲の余地は充分にある」(p220)

 「この結論は、経済学的にいえば、大それた結論である。なんとなれば、アダム・スミスは「個人が、自分の利益だけをめざして利己的に投資をしていれば、見えざる手に導かれて、(長期的には)社会の利益を促進する」(丸括弧内、森脇)ことを強く主張しているからである。私たちの結論は、まさにスミスの権威に挑戦しているものといわなければならない。
 しかしスミスが誤りで、私たちが正しいことは明白である。なぜかと言えば、投資の機会の大小は、どの程度科学が発達しているかに依存するが、科学の発達にたずさわっている人は、自分の経済的利益のために研究しているのでは決してないからである。いま仮りに彼らが自分たちの利益を追求していたとしたならば、彼らは決して研究活動を一生の業とはしなかったであろう。したがってすべての人が利潤動機で利己的に動けば、科学は発達せず、投資機会は非常に小さいものに止まり、社会の利益は、決して促進されることがなかったはずである。繰返しいうように、利潤原理を他の生活諸原理と調和、両立させることが肝要である。利潤原理が各会社の内部で貫徹されることはもちろんだが、外部との関係では必要とあれば━━例えば公害の場合がそうであるように━━それを抑制することすらしなければならない」(p228)
 
 アダム・スミスは誤りだと大胆に言ってのけるのは、さすがに森嶋通夫である。長くなるので、次回に、『思想としての近代経済学』についての感想を書く。

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