« 年の終わりに | トップページ | 『オリバー・ツイスト』からブレアへ »

2006年1月 4日 (水)

ディケンズ『アメリカ紀行』

america1あけましておめでとうございます。

年末から三が日にかけて布団は敷きっぱなし、夕方から酒を飲んで布団に入って本を読む、読みながら少しうたた寝をして目が覚めるとまたつづきを読んで、明け方くらいに眠りにつき、目が覚めてまた飲食してから布団に入って・・・というようなスタイルで、ディケンズの『アメリカ紀行』(岩波文庫)を読んだ。

前に書いたように、若干26歳のフランス人貴族のトクヴィルがアメリカを見て歩いた時より10年後の1842年に、イギリスの作家チャールズ・ディケンズもアメリカに渡り、半年あまり各地をみてまわり、それをまとめたのが『アメリカ紀行』である。1838年に若干26歳で、貧救院育ちの少年の物語の『オリバー・ツイスト』(今、読み始めたところである)を書いたディケンズは、新大陸に同胞がつくった自由・平等・民主主義の共和国に期待するものがあったのではないかと思われるが、結論から書けば、ディケンズにとっては「私はアメリカを訪れて、思っていたほどの美点を発見できませんでした」ということであった。

 amerika2 当時のアメリカでも多数の読者を得ていたディケンズは、どこに行っても歓迎されるが、肝心の著作権については、まるで認められない。アメリカ人についてディケンズはこう書いている。「ドルと政治、彼らの話題はいつもこの二つで、それしかしゃべることができないのです」、「この商取引への愛好は、アメリカの文学がいつまでも保護されないままでいる理由の一つでもある。<俺たちは商業国民なんだから、詩なんかどうでもいいのさ>というわけである。ついでながら言えば、私たちイングランド人は自国の詩人たちを大いに誇りにしていると明言してやまない。ところが、商売という実用一点ばりの功利的喜びの前には、健康的な娯楽や快活な気晴らし、それに健全な空想といったものは色褪せてしまうしかないのである」と。(下巻P137)

 私は船が好きだから、嵐の大西洋を渡る外輪船や客室の描写や、ミシシッピー河をはじめアメリカ国内を外輪の蒸気船で旅する情景など、興味深い描写が多々あるのだが、次の光景なども文学者ならではの描写で、とても印象深い。

「このような光景の中を、この不格好な機械の塊はしわがれ声をあげながら不機嫌そう に進んで行く。外輪が回転するたびに、騒々しい高圧の空気をシューッと吹き出しながら。その音は、向こうの大きな塚に葬られている多くのインディアンたちを目覚めさせるのに十分だろう。その塚はたいへん古いもので、巨大な樫の木やその他の森の木々が土の中深く根を張っている。また、その塚はとても高く盛り上がっているので、自然の女神がそのまわりに造った丘の間にあっても、一つの丘となっている。何百年も昔に、白人の存在を知らないという祝福された状態でここで楽しく暮らしていた、今はなき部族に対する憐れみの情を分かち合うかのように、この川は、その本流からそっと逸れてこの塚の近くにさざ波を寄せている。オハイオでは、このビッグ・グレイヴ・クリークほど明るく輝いている場所はまずない。このような光景すべてを、私は、先ほど述べた小さな船尾の歩廊に坐ったまま眺める。夕暮れがその風景にそっと忍び寄り、目の前でその風景を変える。それから、数人の移民を降ろすために停止する」。(上巻P354)

これは、白人に追われて滅び行くインディアンへのオマージュでもあり、次の一文も同様であるが、これが書かれたのは1842年で、アメリカがこのような事実を認めるのは、それから1世紀以上経た後なのである。

また、その署名の中に、すべての真実と誠実を込めた手と心が表わされている素朴な戦士たちに対して、多くの悲しい思いを抱かざるを得なかった。白人たちの行為からやがて彼らが知ったのは、誓いの破り方、また書類や契約書のごまかし方だけだった。私はまたこうも思いめぐらした。ひとをすぐに信じるビッグ・タートル族の酋長が、また、ひとをすぐに信頼するリトル・ハチェット族の酋長が、彼らに対して虚偽の説明がなされた協定文書に、何度自分のサインをしたのだろうか、と。あるいはまた、なんだか分からずに署名し、しまいにはそれによって自分の土地から未開人として追い出され、その土地が新しい所有者の手にわたるはめになったことが何度あったことだろうか、と」(上巻P318)。

ディケンズは、アメリカの奴隷制度については、さらに手厳しくくり返し批判し、アメリカの共和主義の実態をこう書いている。

「奴隷制度の極まりなく歪んだ醜悪さこそが、自由の身に生まれた無法者たちによる勝手し放題の原因であると同時に結果でもあるということが分からないのか?」(下巻P128)

「この地上の<自由>の唱導者たち・・・異教のインディアンたちがお互いにやった拷問の伝説にはめそめそ泣き言をいい、キリスト教徒たちの残忍さには微笑むのか? このようなことが続く間はずっと、あちこちに散らばって生き残っている黒人奴隷たちに対して勝ち誇り、彼らを所有する白人としての勝利の喜びに酔いしれるのか? 否!それより森とインディアン村を復興するがいい!星条旗の代わりに素朴な羽根を微風になびかせ、通りや広場をインディアンのテント小屋で置き換えるがいい!百人の傲慢な兵士たちによる弔いの歌が大気を満たそうと、それは、一人の不幸な奴隷の叫びに比べれば、甘い調べにすぎないのだ」(下巻P130)。このあたりのアメリカ人の自己憐憫は、現在もそう変わってはいない。

「そして、今現在この奴隷たちを必要なものとし、これから先も、ほかの国々の憤りが彼らを自由の身にするまで、彼らを必要とするであろうもの、それこそ、いいですか、かの惨めで哀れな独立の精神、高邁とは程遠い些事に嬉々とする独立の精神であり、かの下劣な共和主義、誠実な者に対する誠実な奉仕はためらいながら、ビジネスとあらば、どんな策略、謀略、奸計もためらわない、かの共和主義なのです」と。(下巻P307)

本書の序論で、ディケンズはすでにこう書いている。「もし私が示してきたいかなる点においても、アメリカが誤った方向に進んでいるという証拠に気づくならば、皆さんは、私が書いたことには理由があったことを認めるであろう」。また、友人のジョン・フォスター宛の手紙には、こう書いている。「自由に対する最大の打撃は、まさにこの国によって与えられることになるだろう、ということです。自由のお手本が崩壊するのを、全世界に身をもって示すという形です」と。 もうほとんど、イラクで戦争をすすめるブッシュ大統領にと共和党政権にささげてもいいくらいの結論でもある。

 さて、私がディケンズを読もうと思ったのは、前のブログにも書いたが、ひとつには19世紀のイギリスの下層社会のことを知りたかったからである。そして、『アメリカ紀行』から読み始めたのは、もうひとつの知りたいこと、イギリスとアメリカはどうちがうのかということを知りたいからである。

イギリスとアメリカは、元は同じくアングロサクソンであり、イギリスで生まれた古典派経済学が実態として展開し、さらに新古典派経済学を生み出して市場原理主義を世界中に広めているのもアメリカである。しかし、これについては次回以降に書くとして、今回、ディケンズからそのことを学べば、イギリスとアメリカは同じではない、とりわけアメリカにおける<自由>と<共和主義>というのは、イギリス人のディケンズが考えたものとは違っていたというのが、ここでの結論である。

 最後に、文学関係について、少しふれておきたい。ボストンに立ち寄ったディケンズは、そこからおこった超越主義について、こう書いている。

emason 「大地の実は腐敗した物の中で育つ。ボストンでは、これまで述べてきたような腐敗した物から、超越主義者として知られる哲学者たちの一派が出現した。この呼称が何を意味していると考えられているのかを調べてみると、理解し得ないことはすべてまさに超越的である、という説明であった。この説明にあまり満足できなかったので、私はさらに調べ続け、超越主義者たちは私の友人カーライル氏の信奉者であるということ、いや、彼を信奉するラルフ・ウオルドー・エマソン氏の信奉者であるということが分かった。この紳士は一巻のエッセイ集を書いているのだが`その中には、夢のような空想的な多くの事柄に混じって、真実で高潔な、また正直で勇敢なさらに多くの事柄がある。超越主義はいくつかの突飛な考えを持っているが(そのような要素を持たない派なんてあるだろうか)、しかし、そういったものがあるにもかかわらず、多くの健全な特質を持っている。・・・それゆえ、もし私がポストンの人間だったら、私は超越主義者になるであろう」と。(上巻P130)

 また、ジョン・フォスター宛の手紙には、次の一文がある。

  「しかし一方、私の屈託のない笑いは、まったくもってP・Eのおかげによるものです。彼はフィラデルフィアの文芸詐論家で、文法的にも慣用的にも完璧に英語を使いこなす唯一の人で、つやつやしたストレート・ヘアで、折り返し襟のシャツを着、イングランドの文筆家たちを残らず容赦なく批評する人ですが、私が彼の心に<新時代を目覚めさせた>とも言ってくれました」(下巻P301)。

 P・Eとはpoe、エドガー・アラン・ポーのことである。ポーは、旅役者の子として生まれ、幼くして両親と死に別れ、養子に出て1826年にヴァージニア大学に入るが、賭博で借金をつくって退学、その後は陸軍に入り、やがて詩を書き出した。ポーはディケンズから影響を受け、またディケンズを高く評価していたというが、ディケンズがアメリカを見てまわっていたその時代、ディケンズの書くとおり、ドルと綿花と市場以外の価値を認めないアメリカ社会にあって、極貧の中で作品を書きつづけ、1849年に泥酔してのたれ死んだ。

 トクヴィルは『アメリカの民主主義』に「アメリカが偉大な著作家たちをまだもっていない・・・すなわち、精神の自由なきところに、文筆的天才は存在しない。そしてアメリカには精神の自由というものはないのである」(中巻P183)と書いたが、アメリカでは評価されなかったポーが書いた詩や小説は、フランスの象徴主義に大きな影響を与え、ボードレールはポーを高く評価して世に知らしめ、マラルメはその詩を訳した。

 少し遅れて1855年、印刷工や新聞記者などをしながら詩や小説を書き、奴隷制に反対していたウォルト・ホイットマンは、詩集『草の葉』を発行、唯一エマソンから評価を受け、後にウォールデンの森の生活者H.D.ソーローは彼を訪ねた。

 陸軍に入ったポーは、1830年頃までヴァージニア州モンロー要塞に勤務していた。その30年後の1860年に、日米修好条約の調印のためにワシントンを訪れた幕府の使節団は、このモンロー要塞から上陸したという。そして、ニューヨークのブロードウェイで、この日本からの使節団の行列を見たホイットマンは、「壮麗なマンハッタンよ! わが同胞のアメリカ人よ! われわれのところへ、この時遂に東洋がやってきたのだ」と詩を読んだ。

 1892年にホイットマンが死ぬと、同じ年の明治25年に夏目漱石は、「文壇における平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」の一文を書き、1900年にはイギリスに留学して、カーライルを学んだ。そして、私は40年前に漱石と出会い・・・

 正月の酔いの回った布団の中で、本をもったままうつらうつら、これは初夢か今年の世界か、夢とも現実ともつかぬ世界が回りだして、つながりだす。私の今いるところと、ディケンズの世界というのも、思ったほど遠く離れているわけではないと思われ、ますます世界は時空を超えてつながっているのだとの感を強くする。さあ、今晩から『オリバー・ツイスト』の世界である。

※エマソンとポーの写真は、岩波文庫『アメリカ紀行・下巻』から

|

« 年の終わりに | トップページ | 『オリバー・ツイスト』からブレアへ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/113260/7991228

この記事へのトラックバック一覧です: ディケンズ『アメリカ紀行』:

« 年の終わりに | トップページ | 『オリバー・ツイスト』からブレアへ »