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2006年1月31日 (火)

『二都物語』とジャコバン革命

 cd ディケンズ『二都物語』を読んだ。二都とは、ロンドンとパリのことである。物語は1767年から1793年にかけてのことであり、クライマックスは1789年のフランス革命とジャコバン主義の渦巻く1793年のパリである。フランス革命を背景にしているとはいえ、この小説は社会的な歴史小説であるわけではなく、ディケンズ流の読み物であるが、そういった評価とは別に、現代から見ても興味深い構成になっている。

 物語の中心人物は、一人の女を愛した二人の男である。女の愛を射止めたのは、元フランス貴族のチャールズ・ダーニーで、彼はアメリカ独立戦争でアメリカの味方をしたという理由でイギリスで裁判にかけられるのだが、彼の弁護士の手助けをしていたのが主人公のシドニー・カートンで、後にフランスに戻ったダーニーがジャコバン派によってギロチン刑にかけられる寸前に、カートンがその身代わりになって断頭台に送られるというのが、物語の中心である。

 物語の時代背景には、アメリカの独立戦争がある。アメリカは1776年7月4日に『独立宣言』を発表し、イギリスとの独立戦争の後、1783年のパリ条約でイギリスはアメリカ合衆国の独立を承認した。イギリスとフランスは、17世紀以来、インドやアメリカ大陸の植民地をめぐって戦争をつづけていたが、イギリスは戦争に勝ち、フランスはアメリカ大陸ではアメリカの独立を応援したものの、旧制度(アンシャン=レジーム)の下で抑圧体制をつづけたフランスでは、アメリカの独立も契機になって、1789年に革命が起こった。

 アメリカ建国は、1620年にメイフラワー号でプリマスに移住した102名のピューリタンに始まるが、王権神授説を唱える国王と新興階級であるジェントリーやヨーマンとの抗争がつづいたイギリスでは17世紀末に名誉革命が起こって、国王に対する議会の優位が確認された。その後、マニュファクチャーが進んだイギリスでは、アメリカの独立宣言が行われた1776年にアダム・スミスの『国富論』が出版され、資本主義の形成が始まっていた。

 イギリスにおけるチャールズ・ダーニーの裁判では、弁護士の弁護と陪審員による評決でチャールズ・ダーニーは無罪になり、フランスでは、イギリスへの亡命貴族だという密告とジャコバン主義下の熱狂の中で、彼の断頭台送りが即決される。

 私たちは明治の中江兆民以来、ルソーから民主主義を学んで近代市民社会を考えてきたし、フランス革命でマリー・アントワネットが断頭台に送られるのは、それまでの抑圧者階級であったのだから仕方が無い、革命とはそういうものだと思って、さらにロシア革命も中国革命も見てきたきらいがある。
 しかし、昨年に読んだトクヴィルの『アメリカにおける民主主義』の問題意識もそうであったが、フランス革命とジャコバン主義の教訓は、民主主義を徹底すると、それは独裁政治に転化してしまう危険性があるということであり、
いま思えば、それはどの革命にも当っている。

 フランス革命におけるジャコバン主義、「自由、平等、博愛、しからずんば死か」という独裁と粛清をともなう「(“人民の意志”と称する)人民主義的共和主義」が、隣国のイギリスに与えた影響は大きく、それがディケンズの『二都物語』が読まれる背景にあったのだとも思われる。1848年にヨーロッパ各地で起こった2月革命は、当時のイギリスのチャーティスト運動にも影響を与えたが、名誉革命(イギリス人はこの無血革命を誇ってGlorious Revolutionと呼んだ)の国のイギリスでは、いわゆる革命は起こらなかった。

 幼い頃貧しくて苦労したディケンズは、19世紀イギリスの産業社会の興隆の中で多くの読者を獲得して、自らは莫大な印税を手にしたようである。ディケンズの読書は、あと『クリスマス・キャロル』でとりあえず終わりにしようと思っている。

 一方、新大陸が発見されて貿易が興隆する中で、イギリス、アメリカ、ヨーロッパの関係は、個別に成立するものではありえなくなっているのも分かる。イギリスのピューリタンがアメリカに渡り、アメリカ革命はフランス革命に影響を及ぼし、フランス革命はまたイギリスに影響を及ぼすように、いうなれば、既にグローバル化が始まっているわけである。

 前回のブログに大内秀明先生から以下のコメントをいただいた。「『二都物語』よみましたか?ディツケンズはじめ、スミスなど、当時は新大陸=アメリカ、仏革命=パリを強く意識していたんですね。マルクスもイギリスで市民権が採れず、アメリカに渡ろうと考えていた位ですから。ディツケンズとマルクスは直接関係ないようですが、2人が同時期に大英博物館の図書室で勉強していたそうです。」と。そんなで、ついでにその辺りも少し整理できたらとも考えている。

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2006年1月25日 (水)

黄昏のヒルズ

 bosou 北風の吹く寒い日々がつづきます。でもそのせいか空気はきれいで、遠くまで見渡せます。最初の写真は、我が家のべランダから見える房総の山々。房総の山々は、せいぜい300~400mの山ですが、北側の斜面には先週末に降った雪が残っています。写真の右端には、15号埋立地に立つ風力発電の風車が見えます。

 fuji 次の写真は、我が家の玄関側から見える富士山です。丹沢の山々とともにシルエットになっています。

また次の写真は、丹沢の山並みのつづきを背景にした六本木ヒルズです。1日中このビルの前からのhillssニュースが流されていますが、このくらい離れて見ると、澄んだ空気の中 の蜃気楼のようです。

 寒いのと仕事が少ないせいか、少々スランピーな状態で、寒い中、風に吹かれて遠くを見ていると、心が枯れてきます。

   寒風に 黄昏せまる 丘の上

 

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2006年1月23日 (月)

『デイヴィッド・コパフィールド』と19世紀イギリス社会

  dc暖冬など気持ち悪いから、冬は寒くていいのだが、今年の冬はとりわけ寒い。フリーの身、寒いと仕事も暇で、1月は生活費の残高を心配しながらもぬくぬくと読書にいそしみ、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』もどんどん読めた。代表作と言われるだけあって、その出来は『オリバー・ツイスト』よりも数段格上である。

 『デイヴィッド・コパフィールド』はディケンズの自伝的小説だということであるが、日本の私小説とはまるで違う。回想録のような書き出しになっているが、ストーリーには相変わらずご都合主義的なところがあり、例のごとく多様な登場人物には善人と悪人がはっきりしていて、まるで水戸黄門のような場面もあって、勧善懲悪的に結末もつく。

 この小説が書かれたのは1849~50年ということであり、ちょうどマルクスが『共産党宣言』を書き、ロンドンに亡命した頃である。私などもそうであるが、ディケンズを読まずに『共産党宣言』を読んだ人は、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』的に当時のイギリス社会を理解して、階級闘争にその活路を見出そうとした訳であるが、ディケンズの小説には、唯物史観では見えないディテイルが描かれている。

 1948年にドイツやフランスで出版された『共産党宣言』がイギリスで出版されたのは、なんと40年後の1888年であったということである。ロンドンに亡命したマルクスは、イギリスの資本主義社会を分析して、その原理論となる『資本論』を書いたが、大英帝国の時代へと突き進む19世紀のイギリス資本主義社会は、大英図書館でその社会を分析する貧しい亡命ドイツ人をも飲み込んで、急速にダイナミックに展開したのである。

 もともとイギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドにわたる連合国家だが、イギリス人のつくったアメリカも建国の当初より連邦国家であり、さらに多民族化したアメリカ資本主義の20世紀における展開を思えば、このあたりのダイナミズムが、民族主義的国民国家のヨーロッパ大陸とは違ったアングロサクソン資本主義の源泉なのかもしれない。イギリス人にとってはマルクス主義も、ドイツ観念論的な当為であるというよりは、ヨーロッパ思想の one of them だったのであろう。

 私にとって登場人物の中で魅力的なのは、ベッチー伯母、ミスター・ペゴティー、トラドルズなどである。ベッチー伯母は、巻頭の登場からして余韻を残す。養父にいじめられて逃げ出したデイヴィッドがベッチー伯母の家にたどり着く場面、デイヴィッドを養育しながらも自らは破産したベッチー伯母が、デイヴィッドの下宿にやってくる場面、実直な漁夫のミスター・ペゴティー、いじめられっこの学友で脇役ながらいい役をするトラドルズ、これらの描き方を見れば、ディケンズが例え貧しくとも善意をもって努力する人々の味方であることはよく分かる。貴族などほとんど登場しない。登場人物は、エキストラであろうと、貧しかろうとみな生業を持って生きている。
 
 会話が多いが写実は確かで、19世紀のイギリス社会がよく描かれている。フローベールやモーパッサンなどの19世紀フランス小説を読んでもそう思うが、これは世界史の教科書などでは学べないことである。ただ、フローベールやモーパッサンとディケンズはどこか違う。資本主義はイギリスの方が先進的だが、写実主義でいえば、フランス文学の方がより自然だし、優れている。近代社会の成り立ちのちがいだろうか。次のディケンズは、『二都物語』を読んでみることにする。

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2006年1月14日 (土)

『オリバー・ツイスト』からブレアへ

OT1  ディケンズの2冊目『オリバー・ツイスト』を読んだ。ディケンズの描くロンドンは貧民街ばかりで、産業革命の先頭を走る大英帝国の首都としては驚きだったが、その生い立ちからして26歳のディケンズに描けたのは、上流階級というよりは下流階級の世界ばかりであったのだろうと思われる。主人公のオリバー・ツイストも、行き倒れの女から生まれ、救貧院で育てられ、そこを抜け出して苦難して、泣いてばかりいる。最後はハッピーエンドで終わるのだが、ストーリーは強盗あり殺人ありで、サスペンス・ミステリー仕立てにもなっている。なるほど、この辺りのストーリー・テーリングをポーなども学んで、彼のミステリー小説の元祖的散文小説に生かしたのかとも納得する。

 burea さて、『オリバー・ツイスト』といっしょに、山口二郎著『ブレア時代のイギリス』(岩波新書)という新刊書を読んだ。昨年末の岩波書店の新聞広告に、ディケンズの『アメリカ紀行』とこの『ブレア時代のイギリス』が新刊書で載っているのを見たのが、この冬のディケンズ読書計画の発端である。イギリスは世界で最初に産業革命を成しとげ、資本主義社会と帝国主義国家をつくり上げ、20世紀に入るとケインズ経済学を生み出し、第2次世界大戦後は、いちはやく「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家を実践し、それが行き詰るや、鉄の女サッチャーは「小さな社会」志向を始めた。

 高度成長の時代を生きてきた私たちの世代からすると、イギリスはずっと斜陽国家であったが、これは産業社会のライフサイクルにおいて、イギリスが先頭を走って、日本はそれら先進国をまねながら、後発の利を生かしてやってきただけで、日本はイギリスを追い抜いた訳ではなく、イギリスは相変わらずポスト斜陽産業国家のモデルとして、日本の先を歩んでいる。だから日本の小泉首相もサッチャーに20年以上遅れて、現在「小さな社会」を推し進めている。そして、この「小さな社会」政策は、国の負担を減らしながら市場原理主義によって競争を刺激して経済の活性化をはかる政策だから、必ず格差と下流社会を拡大して、若者の失業とドロップアウト化も促進するのだ。

 19世紀前半の初期資本主義社会では、蓄積と恐慌、競争と収奪の結果、多くの労働者階級が生み出され、「イギリスにおける労働者階級の状態」的貧しさの中から多くの貧民と孤児が生み出された。オリバー・ツイストの育った救貧院は、1834年制定の救貧法によってできたそうなのだが、ディケンズを読む限りでは、そこは北朝鮮の収容所のような印象であった。ディケンズの『オリバー・ツイスト』はその告発にもなっていて、あまりのひもじさに「もっとおかゆをください」とオリバーが言うあたりが、この本の一番の出来である。

 『オリバー・ツイスト』の書かれた時代は、世界初の政治的大衆運動であるチャーティスト運動が盛んになった時代であったが、イギリスにおける階級闘争が暴力革命路線をとることはなかった。オウエンは労働組合や共同社会(コミュニティ)づくりを提唱し、ロッチデールでは協同組合が生まれ、ディケンズは慈善に期待していた。これは、同じ頃にヨーロッパで盛んであった共産主義者同盟的革命運動が、秘密結社と暴力革命路線、唯物史観と階級闘争主義にシフトしていったのと比べると際立っている。イギリスでは、トーリーとホイッグ以来、保守党と自由党から労働党による2大政党による議会制民主主義による政治をすすめて来た。

 昨年、ロンドンでは大規模な無差別テロがあり、そのテロリストはイギリス社会で育ったイスラム系の若者であり、そこには差別と若者の就職難があったという。国民国家を基礎にした古典派経済学の時代からグローバリズムの時代の新古典派経済学の時代へとなり、多民族化した現在のオリバーは、「もっと仕事をください」と言うのだろうか。そして、それに対してイギリスの政治と社会は、どう対応するのだろうか。山口二郎氏は『ブレア時代のイギリス』に、「市場主義の申し子か?それとも、福祉国家の救世主か?」という帯をつけた。共和党ブッシュ政権の対イラク政策を支持する労働党ブレア政権は、果たしてどこに向かうのだろうか。

 昨今の日本では、小泉圧勝内閣による「小さな政府」路線が跋扈しているが、サッチャーからブレアへの経過を見れば、「小さな政府」路線は人々を幸福にするわけではなく、また、いつまでもつづくわけではないということが分かる。一方、「小さな政府」に反対する路線にしろ、もはや「大きな政府」による再分配政策が人々から支持されるわけでもないことも分かる。そこで、ブレアは「第三の道」を行く訳だが、それは以下のとおりである。

 「イギリス労働党は・・・グローバル化という大きな経済環境の変化の中で、社会民主主義の理念を実現する“アングロ・ソーシャル・モデル”を開発しつつあると見ることができる。このモデルが大陸ヨーロッパの社会国家モデルと異なるのは、先に述べたとおり、グローバル化を当然の前提としている点である。経済構造が製造業中心からサービス業中心に移行することを受容すること、経済の効率を高めるために労働市場の柔軟化を受け入れること・・・ことなどが、その主たる内容である。しかし、アングロ・ソーシャル・モデルは単なるアメリカ型資本主義の模倣ではない・・・」(P175)。「目標は、人々が市場の圧力によってなすがままにされるのではなく、市場の中で自立的に活動できる人間を育成することである」(P178)。

 なるほど、我々のNPOや「ドロップアウト・カレッジ」のすすめ方についても、参考になる点が多い。詳しくは、また書く。さて、次の読書は『デイヴィット・コパフィールド』全4巻である。ディケンズの代表作だというので、期待深々である。

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2006年1月 4日 (水)

ディケンズ『アメリカ紀行』

america1あけましておめでとうございます。

年末から三が日にかけて布団は敷きっぱなし、夕方から酒を飲んで布団に入って本を読む、読みながら少しうたた寝をして目が覚めるとまたつづきを読んで、明け方くらいに眠りにつき、目が覚めてまた飲食してから布団に入って・・・というようなスタイルで、ディケンズの『アメリカ紀行』(岩波文庫)を読んだ。

前に書いたように、若干26歳のフランス人貴族のトクヴィルがアメリカを見て歩いた時より10年後の1842年に、イギリスの作家チャールズ・ディケンズもアメリカに渡り、半年あまり各地をみてまわり、それをまとめたのが『アメリカ紀行』である。1838年に若干26歳で、貧救院育ちの少年の物語の『オリバー・ツイスト』(今、読み始めたところである)を書いたディケンズは、新大陸に同胞がつくった自由・平等・民主主義の共和国に期待するものがあったのではないかと思われるが、結論から書けば、ディケンズにとっては「私はアメリカを訪れて、思っていたほどの美点を発見できませんでした」ということであった。

 amerika2 当時のアメリカでも多数の読者を得ていたディケンズは、どこに行っても歓迎されるが、肝心の著作権については、まるで認められない。アメリカ人についてディケンズはこう書いている。「ドルと政治、彼らの話題はいつもこの二つで、それしかしゃべることができないのです」、「この商取引への愛好は、アメリカの文学がいつまでも保護されないままでいる理由の一つでもある。<俺たちは商業国民なんだから、詩なんかどうでもいいのさ>というわけである。ついでながら言えば、私たちイングランド人は自国の詩人たちを大いに誇りにしていると明言してやまない。ところが、商売という実用一点ばりの功利的喜びの前には、健康的な娯楽や快活な気晴らし、それに健全な空想といったものは色褪せてしまうしかないのである」と。(下巻P137)

 私は船が好きだから、嵐の大西洋を渡る外輪船や客室の描写や、ミシシッピー河をはじめアメリカ国内を外輪の蒸気船で旅する情景など、興味深い描写が多々あるのだが、次の光景なども文学者ならではの描写で、とても印象深い。

「このような光景の中を、この不格好な機械の塊はしわがれ声をあげながら不機嫌そう に進んで行く。外輪が回転するたびに、騒々しい高圧の空気をシューッと吹き出しながら。その音は、向こうの大きな塚に葬られている多くのインディアンたちを目覚めさせるのに十分だろう。その塚はたいへん古いもので、巨大な樫の木やその他の森の木々が土の中深く根を張っている。また、その塚はとても高く盛り上がっているので、自然の女神がそのまわりに造った丘の間にあっても、一つの丘となっている。何百年も昔に、白人の存在を知らないという祝福された状態でここで楽しく暮らしていた、今はなき部族に対する憐れみの情を分かち合うかのように、この川は、その本流からそっと逸れてこの塚の近くにさざ波を寄せている。オハイオでは、このビッグ・グレイヴ・クリークほど明るく輝いている場所はまずない。このような光景すべてを、私は、先ほど述べた小さな船尾の歩廊に坐ったまま眺める。夕暮れがその風景にそっと忍び寄り、目の前でその風景を変える。それから、数人の移民を降ろすために停止する」。(上巻P354)

これは、白人に追われて滅び行くインディアンへのオマージュでもあり、次の一文も同様であるが、これが書かれたのは1842年で、アメリカがこのような事実を認めるのは、それから1世紀以上経た後なのである。

また、その署名の中に、すべての真実と誠実を込めた手と心が表わされている素朴な戦士たちに対して、多くの悲しい思いを抱かざるを得なかった。白人たちの行為からやがて彼らが知ったのは、誓いの破り方、また書類や契約書のごまかし方だけだった。私はまたこうも思いめぐらした。ひとをすぐに信じるビッグ・タートル族の酋長が、また、ひとをすぐに信頼するリトル・ハチェット族の酋長が、彼らに対して虚偽の説明がなされた協定文書に、何度自分のサインをしたのだろうか、と。あるいはまた、なんだか分からずに署名し、しまいにはそれによって自分の土地から未開人として追い出され、その土地が新しい所有者の手にわたるはめになったことが何度あったことだろうか、と」(上巻P318)。

ディケンズは、アメリカの奴隷制度については、さらに手厳しくくり返し批判し、アメリカの共和主義の実態をこう書いている。

「奴隷制度の極まりなく歪んだ醜悪さこそが、自由の身に生まれた無法者たちによる勝手し放題の原因であると同時に結果でもあるということが分からないのか?」(下巻P128)

「この地上の<自由>の唱導者たち・・・異教のインディアンたちがお互いにやった拷問の伝説にはめそめそ泣き言をいい、キリスト教徒たちの残忍さには微笑むのか? このようなことが続く間はずっと、あちこちに散らばって生き残っている黒人奴隷たちに対して勝ち誇り、彼らを所有する白人としての勝利の喜びに酔いしれるのか? 否!それより森とインディアン村を復興するがいい!星条旗の代わりに素朴な羽根を微風になびかせ、通りや広場をインディアンのテント小屋で置き換えるがいい!百人の傲慢な兵士たちによる弔いの歌が大気を満たそうと、それは、一人の不幸な奴隷の叫びに比べれば、甘い調べにすぎないのだ」(下巻P130)。このあたりのアメリカ人の自己憐憫は、現在もそう変わってはいない。

「そして、今現在この奴隷たちを必要なものとし、これから先も、ほかの国々の憤りが彼らを自由の身にするまで、彼らを必要とするであろうもの、それこそ、いいですか、かの惨めで哀れな独立の精神、高邁とは程遠い些事に嬉々とする独立の精神であり、かの下劣な共和主義、誠実な者に対する誠実な奉仕はためらいながら、ビジネスとあらば、どんな策略、謀略、奸計もためらわない、かの共和主義なのです」と。(下巻P307)

本書の序論で、ディケンズはすでにこう書いている。「もし私が示してきたいかなる点においても、アメリカが誤った方向に進んでいるという証拠に気づくならば、皆さんは、私が書いたことには理由があったことを認めるであろう」。また、友人のジョン・フォスター宛の手紙には、こう書いている。「自由に対する最大の打撃は、まさにこの国によって与えられることになるだろう、ということです。自由のお手本が崩壊するのを、全世界に身をもって示すという形です」と。 もうほとんど、イラクで戦争をすすめるブッシュ大統領にと共和党政権にささげてもいいくらいの結論でもある。

 さて、私がディケンズを読もうと思ったのは、前のブログにも書いたが、ひとつには19世紀のイギリスの下層社会のことを知りたかったからである。そして、『アメリカ紀行』から読み始めたのは、もうひとつの知りたいこと、イギリスとアメリカはどうちがうのかということを知りたいからである。

イギリスとアメリカは、元は同じくアングロサクソンであり、イギリスで生まれた古典派経済学が実態として展開し、さらに新古典派経済学を生み出して市場原理主義を世界中に広めているのもアメリカである。しかし、これについては次回以降に書くとして、今回、ディケンズからそのことを学べば、イギリスとアメリカは同じではない、とりわけアメリカにおける<自由>と<共和主義>というのは、イギリス人のディケンズが考えたものとは違っていたというのが、ここでの結論である。

 最後に、文学関係について、少しふれておきたい。ボストンに立ち寄ったディケンズは、そこからおこった超越主義について、こう書いている。

emason 「大地の実は腐敗した物の中で育つ。ボストンでは、これまで述べてきたような腐敗した物から、超越主義者として知られる哲学者たちの一派が出現した。この呼称が何を意味していると考えられているのかを調べてみると、理解し得ないことはすべてまさに超越的である、という説明であった。この説明にあまり満足できなかったので、私はさらに調べ続け、超越主義者たちは私の友人カーライル氏の信奉者であるということ、いや、彼を信奉するラルフ・ウオルドー・エマソン氏の信奉者であるということが分かった。この紳士は一巻のエッセイ集を書いているのだが`その中には、夢のような空想的な多くの事柄に混じって、真実で高潔な、また正直で勇敢なさらに多くの事柄がある。超越主義はいくつかの突飛な考えを持っているが(そのような要素を持たない派なんてあるだろうか)、しかし、そういったものがあるにもかかわらず、多くの健全な特質を持っている。・・・それゆえ、もし私がポストンの人間だったら、私は超越主義者になるであろう」と。(上巻P130)

 また、ジョン・フォスター宛の手紙には、次の一文がある。

  「しかし一方、私の屈託のない笑いは、まったくもってP・Eのおかげによるものです。彼はフィラデルフィアの文芸詐論家で、文法的にも慣用的にも完璧に英語を使いこなす唯一の人で、つやつやしたストレート・ヘアで、折り返し襟のシャツを着、イングランドの文筆家たちを残らず容赦なく批評する人ですが、私が彼の心に<新時代を目覚めさせた>とも言ってくれました」(下巻P301)。

 P・Eとはpoe、エドガー・アラン・ポーのことである。ポーは、旅役者の子として生まれ、幼くして両親と死に別れ、養子に出て1826年にヴァージニア大学に入るが、賭博で借金をつくって退学、その後は陸軍に入り、やがて詩を書き出した。ポーはディケンズから影響を受け、またディケンズを高く評価していたというが、ディケンズがアメリカを見てまわっていたその時代、ディケンズの書くとおり、ドルと綿花と市場以外の価値を認めないアメリカ社会にあって、極貧の中で作品を書きつづけ、1849年に泥酔してのたれ死んだ。

 トクヴィルは『アメリカの民主主義』に「アメリカが偉大な著作家たちをまだもっていない・・・すなわち、精神の自由なきところに、文筆的天才は存在しない。そしてアメリカには精神の自由というものはないのである」(中巻P183)と書いたが、アメリカでは評価されなかったポーが書いた詩や小説は、フランスの象徴主義に大きな影響を与え、ボードレールはポーを高く評価して世に知らしめ、マラルメはその詩を訳した。

 少し遅れて1855年、印刷工や新聞記者などをしながら詩や小説を書き、奴隷制に反対していたウォルト・ホイットマンは、詩集『草の葉』を発行、唯一エマソンから評価を受け、後にウォールデンの森の生活者H.D.ソーローは彼を訪ねた。

 陸軍に入ったポーは、1830年頃までヴァージニア州モンロー要塞に勤務していた。その30年後の1860年に、日米修好条約の調印のためにワシントンを訪れた幕府の使節団は、このモンロー要塞から上陸したという。そして、ニューヨークのブロードウェイで、この日本からの使節団の行列を見たホイットマンは、「壮麗なマンハッタンよ! わが同胞のアメリカ人よ! われわれのところへ、この時遂に東洋がやってきたのだ」と詩を読んだ。

 1892年にホイットマンが死ぬと、同じ年の明治25年に夏目漱石は、「文壇における平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」の一文を書き、1900年にはイギリスに留学して、カーライルを学んだ。そして、私は40年前に漱石と出会い・・・

 正月の酔いの回った布団の中で、本をもったままうつらうつら、これは初夢か今年の世界か、夢とも現実ともつかぬ世界が回りだして、つながりだす。私の今いるところと、ディケンズの世界というのも、思ったほど遠く離れているわけではないと思われ、ますます世界は時空を超えてつながっているのだとの感を強くする。さあ、今晩から『オリバー・ツイスト』の世界である。

※エマソンとポーの写真は、岩波文庫『アメリカ紀行・下巻』から

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