« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »

2005年11月30日 (水)

ムロケンとマンゴー『就職しないで生きるには』

LM  ムロケンこと室矢憲治氏が、最近とある雑誌に書いた「未来へのメモワール」という」文章の中に、次の一文があった。「ハワイへの旅から帰ってきて2週間、それまでの2年間に渡るオン・ザ・ロードな生活で各地に散らばっていた家財道具を集め、引越しの日々は、ヒッチャカメッチャカ、チャカ・チャーンな出来事の連続だった。・・・そもそもこんな旅の生活が始まったきっかけはといえば、家庭崩壊、経済崩壊、気分爽快・・・」と。同じ頃、12月11日のNPOのシンポジウム「就職しないで生きるには」のために、そのモチーフになったレイモンド・マンゴーの『就職しないで生きるには』を再読していたら、次の一文があった。「家に対する権利も放棄して元の持ち主に返すと、夜逃げをしてしまった。1977年のことである。一晩のうちに、カラッケツになりさがった。1ヵ月半ほど友人の家の長いすにねとまりすることになった。本屋身の回りのものは箱につめたまま、シアトル中の知り合いのガレージや地下室に分散してあずけておいた」と。なんだこれは、時空を超えて日本とアメリカのビート、ヒッピーは、同じ事を繰り返しているではないか。マンゴーの本には、当時、日本を訪れたことも記されているが、マンゴー氏の日本での転がり込み先を紹介したのがムロケンであったときけば、むべなるかなである。

 さて、レイモンド・マンゴーの『就職しないで生きるには』であるが、1960年代から70年代にかけてのアメリカ、ベトナム戦争が激化する一方で、若者たちの間にはベトナム反戦運動とともに、ヒッピー・ムーブメントが広がっていくのだが、マンゴーはこう書いている。「わたしがまだ20代で、1960年代を炎のようにすごし、明日なんてないという気になっていたころ、仕事というのは憎悪すべき単語だった。わたしは終日遊びまわり、自由を求めて暮らしたがっていた」。「一種の解放区。はずれ者の群れのための地。あのころは“解放”を信じていた。“解放”がわたしたちに共通で、最高に美しいことばだった」。「ドルやセントでできた価値がどれほどでも、もし自由でなければ、価値がない」と。そして、都市生活からのがれた理想主義者のヒッピーたちは、次々とコミューンをつくった。「それは“もうひとつの生き方”を模索する運動だった。政治的レベルの要求ではなく、むしろ文化的反逆だった。新しい文化は、カウンター・カルチャーと呼ばれた」(※中山容の解説より)のである。

 働かず、収入もなく、さまざまな公的援助でくらしていたヒッピーたちは、70年代になるとやがて集団的に新しい文化をめざし“、もうひとつの生き方”の実践を始めた。マンゴーが『就職しないで生きるには』に書いたのは、自らの体験を中心にした元ヒッピーたちの多様な仕事起こしのフィールドワークである。マンゴー自身は書店を始め、朗読会を開き、物書きをやり、非営利団体をつくり、物書きのレクチャーもやった。またある者は自然なサンダルをつくり、またある者は健康食品店をつくり、またある者は『ホール・アース・カタログ』を売り、またある者はレストランを始め、またある者は天然石鹸を製造した。そして、これらのカウンター・カルチャー型の小ビジネスは、「集団主義的」「共同体的」土台に立った「労働者コレクティブ」が運営していることが多いようであった。

 さてさて、60年代から70年代に起こったこれらのカウンター・カルチャ型のビジネスと元ヒッピーはその後どうなったのだろうか。おそらく、70年代にはIBMの大型コンピューターに対抗するパソコンをつくり、80年代にはNPOをつくり、それらをネットワークしながら、90年代にはWWWのインターネット文化へと、引き継がれていったのであろうと思われるが、マンゴー自身の結論はこうであった。「だがわたしはいま1980年代に突入する。わたしも中年の三十路をむかえる。そして“仕事”は美しいことばになり、それこそが最良の“あそび”になった。仕事こそいのちだ。それが報酬だ。その仕事がいいものなら、それを感じることができ、充実感がある。わたしたちは根源的利益をつかむ。(でも、むりをしないこと。これは忘れるべからずだ。追い求めれば、それだけ、逃げていってしまう。なんであれ)」である。

 『就職しないで生きるには』の原題は「COSMIC PROFIT(根源的利益)」だそうである。要は「体制からのドロップアウトのつぎに、それなら、どうやって生き延びるのか、生計をたてつつ、同時に自由で、楽しめる仕事(根源的利益)をどうやってつくりだし、どうやって守り抜くかという問題・・それについて考えることが、この本のねらいだ」(※中山容の解説より)ということである。

 思えば、日本でも規模は小さいが、60年代末から70年代にかけて、中央線沿線などに4畳半型コミューンがけっこうあって、その中からエコロジカルな仕事起こしがなされてきた。この辺りは、フーゲツのJUNさんのブログ、確か今年の5月頃にまさに「就職しないで生きるには」のタイトルで連載されていたのを読むと、よく分かる。私は、70年代の初めに大学を中退した後、本屋で働いて、その頃は自分で本屋をやりたかったものだったが、やがて生協で働くことになり、70年代には「食品の安全性云々」を言いながら、そして80年代に入ると日本にもアメリカの「労働者コレクティブ」が知られるようになり、それは「ワーカーズ・コレクティブ」と称されて、既存の生協に飽き足らなかった私は、それに入れ込んでいったものであった。そして今、自分なりに「就職しないで生きるには」を実践している。

 60年代からの日本の若者の反体制運動は、当時の日本の後進性を反映して、その主流は左翼主義的な学生運動にあって、やがてその多数は企業社会に収斂してしまったのが実情であった。そして現在、その中心にあった団塊の世代はリストラもしくは退職の世代となり、その子供たちの世代には「下流社会」化が待ち受けているという。さて、団塊の世代の行く末は、自業自得でもあるからいいとしても、団塊ジュニアの行く末は果たしてどうなるのであろうか。

 そんなこんなで、かつて日本のカウンター・カルチャーの中に生き、その後もずーっと就職しないで生きてきて、日本のカウンター・カルチャーの中心にいつづけるビート、ヒッピー、ふーてんのお三方にお集まりいただいて、この12月11日(日)に、シンポジウム「就職しないで生きるには」をやることとなった。パネラーであるムロケンさん、ドクター・セブンさん、フーゲツのJUNさんは、「就職しないで生きるには」を実践してきた人たちである。私もパネラーもみんな既にいい歳だが、フリーター的若者たちと共に、「生計をたてつつ、同時に自由で、楽しめる仕事(根源的利益)」について、「就職しないで生きるには」の可能性を今一度考えてみた7HMいと考えている。日本におけるカウンター・カルチャー・ムーブメントは未完のままで、団塊オヤジはここでくたばるわけにはいかないのだ。世間から何を 言われようと、団塊は不滅なのだ。多くのみなさまの参加を期待しています。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年11月28日 (月)

社会的企業?

 先週、自主生産ネットワークに参加するM社の社長から電話があって、「至急、会社案内を作ってもらえないだろうか」と言われた。デザイン屋さんに見積もりを頼んだら50万円と言われたのだが、予算が無いとのことであった。予定の仕事の入稿が遅れていたので、3日間で仕上げて、昨日ゲラを渡した。倒産→自主生産企業はどこも金が無いので、社長が気にする料金については、「印刷実費込みで6万円でいい」と言ったら、ほっとした顔をした。A4版8ページのカラー印刷だが、印刷は自前のインクジェットプリンターでジーコ、ジーコである。

 今日は、JJSCの事務所でテープ起こしをやった。義理ある人が主宰している協同組合関係の研究会の「ニューズレター」のためのテープ起こしで、これもレイアウトして、A4版4ページ、レーザープリンターでジージーと50部プリントアウトして3万円の仕事である。JJSCの事務所を共有しているNPOの仲間が、「平山さん、もう少しもらったら」と言っていたが、相手に金があればで、悩ましいところである。昨日、今日とパート仕事は休みだったから、実働の単価がパートの時給より高ければいいというつもりであった。

 さて、昨日は青山の国連大学で『21世紀の社会・経済システムを展望するために、「サード・セクター」から「社会的起業」へ』というシンポジウムがあって、大内秀明先生や樋口兼次先生と行ってきた。欧州社会的経済団体連合理事のティエリ・ジャンテ氏の講演を中心にした催しで、私がこの30年間に協同組合関係のいろいろな組織やグループで出会ったほとんどの人たちが参加していた。それこそ共産党から新左翼までと言ってもいいくらいで、巨大なグローバリズムのうねりを前にして、昔だったら人民戦線とか統一戦線とか言ったのだろうが、今風にネットワークができた訳である。

 いわゆる「第3セクター」ではない「社会的企業」と言われると、新しい概念のように聞こえるが、内容的には、協同組合・共済組合・労働組合、フランスのアソシアシオンといったもので、協同組合に長くいた私から見ると、とりたてて新しいものではない。非営利団体といえば、いわゆるNPOが思い浮かぶが、「社会的企業」を提起している人たちは、アメリカ型のNPOは単なるボランティア団体であるとして、ヨーロッパ型にシフトした、より「社会的」な企業の在り方を模索しているようであった。

 後半は、日本生協連、ワーカーズ・コレクティブのネットワーク、NPOのサポートセンター、労働金庫、連合からの5名によるパネルディスカッションであった。この取り合わせも、主催者の配慮と時の流れを感じさせ、やっと並んだかとも思わせるが、これも組み合わせ的には新しい関係ではない。NPOサポートセンターの山岸秀雄氏が「NPOはビジネスをやる」と、ひとり気をはいていた。

 5時半にシンポジウムが終わって、先生たちと渋谷で一杯やって、それから錦糸町に行って、駅前のマクドナルドで100円のコーヒーを飲みながら、前述のM社の社長に会った訳である。シンポジウムでは、ワーカーズ・コレクティブは社会的企業とされるのであったが、目の前にいる倒産→自主生産企業であるM社の社長は、年末に向かう中での事業経営に必死の様子であった。

 今日、JJSCの事務所でいっしょだったNPOの仲間は、会社を辞めた後、自分で事業を起こして、毎日、必死になって営業活動をしている。「俺はもっともうけたい」と言っていた。私は、稼ぎはそこそこ、12月11日のNPOのシンポジウムに、どう若い人を集めるかが課題である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月12日 (土)

シンポジウムのご案内

 レストランで働き始めて5日たった。年末にむけてDTPの仕事も二つ入った。やっと仕事が回り始めたところだ。今年は、会社勤めを辞めてから6年目の年で、どうなることやらと思っていたが、なんとかかんとかである。

 さて次は、今年の締めも兼ねて、以下のシンポジウムを企画しました。このブログの読者の多くの(?)みなさんの参加を期待しています。

シンポジウム:「就職しないで生きるには」
~ ビート的生き方 Beat Style~


「下流社会」から対抗文化を
ニート、フリーターから“夢ある貧乏人”へ
この時代を1/1000ミリ動かすために・
・・

パネラー:Love & Peace & Freedomの巨匠たち
室矢 憲治(ビート詩人)
ドクター・セブン(ヒッピー詩人)
フーゲツのJUN(ふーてん詩人)
司会:平山 昇(NPO JJSC/ダルマ舎)


日時:12月11日(日)午後5時半開場、6時開始
内容:パネラートーク、フリートーク、ミニイベント
場所:門前仲町天井ホール(地下鉄東西線・大江戸線門前仲町駅下車1分・赤札堂前)
参加費:2000円(飲み物・スナックつき)


主催:特定非営利活動法人 自主事業サポートセンター(JJSC)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 6日 (日)

シンクロニシティ

 3日前の外出の際、最寄の駅の出口で「平山さん」と小声で声をかけられた。振り向くと、初老の男性がいて、すぐに勝山マリーナのマスターだと分かった。30年前に私が初めて手に入れたディンギーY15を置いたマリーナのマスターで、再会するのは25年ぶりになるだろうか。マリーナ経営は止めてしまったが、まだボート関係の仕事をしていて、3年くらい前から私の住む住宅の近くにできた新しい住宅に住んでいるという。「前にもお見かけしたのだけれど、平山さんかどうか自信がなくて声をかけられなくて、それでも平山さんみたいなキャラはそんなにいないから」と言われた。それはお互い様だとも思いながらも、近々の再会を約束して別れたが、先日、このブログに「過ぎ去った海の思い出」を書いたばかりだったので、全くの偶然とは思われなかった。

 それから一昨日、また仕事探しにハローワークに行って、DTP関係で面接のアポをとってもらったのだが、年齢を言うと面接さえも断られてしまった。そこで職種は問わずに探したら、家の近くのレストランが調理補助を募集していたので、応募することにした。既に応募があるとのことだったが、面接の予約は取れたので、昨日neptune行ってきた。このレストランは50フィートのモータークルーザーを所有していて、それでレストランシップ(※左の写真)を運行しているから、履歴書の資格欄に「1級小型船舶免許」と書いておいたら、面接した社長が「ほう、1級をお持ちですか」と言ってくれて、その後連絡があって、使ってくれることになった。これも先のブログの書き込みのこともあって、ブログがオーラのようなものを発してくれたせいなのかなと思ったりもする。

 思えば半年前に、それまでのコロッケ揚げのパート仕事を辞めて、なんとかDTP仕事のSOHOだけで食えないものかと仕事探しをしてみたものの、思うように仕事は見つからず、半年たってまた厨房仕事をやりながらのSOHOスタイルとなってしまった。自ら「仕事起こしをサポートするNPO」を主宰しながら情けない話だが、靴をなめるような仕事探しをするよりは、半年間もフリーしていると、貧乏でも自由気ままが一番という気に、ますますなってしまうから困ったものだ。

 そんなで、12月の 始めにNPOで「就職しないで生きるには」というシンポジウムでもやろうと、『就職しないで生きるには』(晶文社)の著者のレイモンド・マンゴーを知っているというビート詩人のムロケンさんに電話をすると、OKとのことだったので、さらに、そのシンポジウムの宣伝をしようと、一昨日の夜、久しぶりにフーゲツのJUNさんの主宰するE.G.P.P.100のイベントに行ってきた。参加費の足しにしようと、行く前に“幻の名作”『青春JAZZ喫茶放浪記』を5部ほどプリントアウトして製本、アピールも兼ねて久しぶりにリーディングもやったら、3部売れた。JUNさんもNPOのシンポジウムに協力してくれるというので、これで代表的ビート詩人と代表的ふーてん詩人が参加することになった。さらに、代表的ヒッピー詩人のセブンさんなども参加してくれたら、最高である。イベント参加者は「下流社会」系の若い人たちが多かったが、新たな対抗文化づくりをめざして、彼らが参加してくれるようなシンポジウムをやりたいと思っている。

 ジャック・ケルアックは1949年にジョン・クレロン・ホームズに書いた手紙の中で、「フリスコではロシアン・ヒルの、屋根のひん曲がった奇妙な家にニール・キャサディがひそんでいる。着いたら、揚げ物専門のコックの仕事を見つけて、バップ・ミュージックでも聴いてすごすよ」(『ビート・ビジョン』思潮社刊)と書いている。ケルアックは海軍をドロップアウトした後、船員の仕事をしたり、コロンビア大学をドロップアウトした後は、放浪をくり返し、鉄道の制動手や森林監視員をやりながら、小説を書きまくった。私がこの4年間やったコロッケ揚げの仕事もそうだが、コック系の仕事は、この歳でやるには、趣味と実益も兼ねて、けっこう面白い。しかも、レストランシップの上でやれたら最高である。ただ私の場合は、歳のせいか才能が無いのか、ケルアックのようには書けないのが悩みというか限界であるのだが。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年11月 1日 (火)

私的「お台場」考

 昨晩は街に飲みに出て、帰ってきてそのまま眠ってしまったら、今朝は早く目が覚めて、天気が良いので散歩に出た。私の住宅はお台場と夢の島のちょうど真ん中にあって、西に30分歩くとお台場で、東に30分歩くと夢の島であるのだが、今日はお台場まで歩いた。
 休日には観光地のようなお台場であるが、平日の早朝の浜にはまるで人気がなく、対岸の高層ビルが朝日に映え、ビルとビルの間には、富士山が見えた。お台場独り占め状態で、素晴らしい景のお礼に、富士山に手を合わせた。
 やがて、ビーチサイドの高層住宅から仕事に向かう人が出て来る。通りを自動車やバイクが走り抜けていく。私には走り抜けていく先が、まだ見えない。ラッシュアワーに逆らうように、帰りがけにテニスの森公園で一服、家に帰って風呂につかった。

 mixiというヴァーチャル・コミュニティ・サイトがあって、そこの私のページの日記欄に、本日、以上の書き込みをしたら、サイト仲間の梶山こうじさんから以下のコメントをいただいた。
 「葉山とか 湘南の海岸独り占めとは また違った趣がありますよね。 お台場では 海に向かって叫ばないだろう とか。(笑)  青春路線は やっぱり湘南が 似合いますよね~。 お台場は どんな感じだろう? どうでしたか? 」

 横浜生まれで葉山に住む梶山さんからすると、「お台場が海とは!」といった感覚なのかもしれない。もっとも、昔から浦安辺りでヨット遊びをしていると、湘南で遊んでいる人からは、「海から100マイル」と揶揄されたものだったが・・・。この場合の海とは、三崎以南をいうらしいのだが、湘南に住む梶山さんの感覚も、多分似たり寄ったりなのだろう。そこで、海のある街! 下町は江東区の海辺! に住む私としては、我が家の近くにあるお台場について、時々の写真を添えて少し記しておこうと思ったわけです。※写真はクリックすると大きくなります。

 まづ最odaiba1初の写真は、約25年前のお台場で、ヨット仲間のディンギーを持ち込んで遊んだ時のもので、いっしょにいるのは私の息子です。この頃のお台場は、行くのに道も悪く、来ているのははぜ釣りをする人くらいでした。

 2枚目の写真は、約20年弱くodaiba2  らい前のもので、お台場がウィンドサーフィンのメッカになった頃のものです。もうほとんど湘南と変わらない風景でしょう。正面の林のある一帯は、今ではフジテレビをはじめ、高層ビルが林立していますが、当時はサーファー用のハウス以外は、まだ何もありませんでした。

 3枚目odaiba3の写真は、約15年強くらい前のもので、夏になると当時のお台場では、ビキニ姿のたくさんの若い女性が甲羅干しをしていました。来ている若い人は、だいたい都会派系でしたから、湘南顔負けでした。

 4枚目の写真は、建設中のレインボーブリッジが写っていますが、15年弱くらい前のものでしょうか。当時まだ晴海でボートショウが開かれていて、ヨット仲odaiba4間と見に行ったら、展示品のセーリングカヌ ーが安く売りに出されていたので、一緒に行ったヨット仲間をそそのかしてそれを買わせて、その試し乗りをお台場でやった時のものです。

 5枚目の写真は、7年前くらいのものです。屋形船と称して、お友達などをodaiba5お客さんにして、クルーザーでお台場の中まで入って行って、船上で飲み食いするのです。ただし、お台場は浅いので、ちゃんと潮位を調べて行かないと、時々、キールを海底にひっかけたものでした。

 このように、お台場では湘南でやれるようなことは全てやれましたし、さらに、その名の元になっている史跡の第三台場では、昔まだあまり人も来なかった頃には、孤島的雰囲気の中で、勝手にバーベキューなどもできました。そして現在では、銀座まで10分で行けるのです。 こうなると、青春路線もオヤジ路線ももうお台場しかありません。

 とかなんとか馬鹿なことを書いているうちに、この間の鬱の気がすこしずつ晴れてきたような気がします。これまた、梶山さんに感謝です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »