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2005年10月15日 (土)

恐慌論の形成とコニュニティの形成

kyoukou  先日、大内秀明先生の『恐慌論の形成』(日本評論社)の出版記念会があって、数少ない非学者系参加者として会の末席を汚してきたのだが、本をいただいたので、さっそく読んでみた。「恐慌論」という書名からして、なんで今さら「恐慌論」なのだろうかと思っていたのだったが、「恐慌現象の消滅は、恐慌論の消滅ではない」ということである。

 では「恐慌論」とは何かといえば、マルクスが『資本論』で解明した「近代社会の経済的運動法則」=「資本の絶対的過剰生産」と景気循環の必然性のことである。軽工業を中心にした19世紀型の産業構造が、重化学工業を中心にした20世紀型の産業構造に転換する中で、19世紀型の恐慌は消滅した。しかし、20世紀においても、資本の過剰と景気循環はくりかえされながらも、帝国主義戦争や冷戦=機軸通貨国家アメリカの産軍複合体制によるドルの垂れ流しとケインズ政策=有効需要理論などによって、資本の過剰と景気循環は調整され、恐慌の発生は抑制されてきた。

 では、ポスト工業化のすすむこれからの社会において、景気循環はどうくり返し、また調整されるのだろうか。「失われた10年」と呼ばれる90年代における日本経済の停滞は、資本・雇用・資金の3つの過剰の調整による停滞であったわけだが、勝ち組のアメリカにおいてもITバブルがはじけたように、景気は「投機的な変動をくり返す」ことを予測しながらも、大内先生が未来を見る目はそんなに暗くはない、というのが一読した感想である。

 これは、出版記念会で国学院大学教授の伊藤誠氏が挨拶の中で「最近のマル経は、暗い話ばかりだ」と言っていたのとは対照的で、大内先生の人柄もあるだろうが、やはり見識の広さと、大内先生の宇野経済学が宇野派の中でもとりわけ「純粋宇野経済学」であるからだろうと思われる。

 本書の中で先生は、古典派から新古典派、供給サイドの経済学から有効需要理論まで経済学説史を鳥瞰して、そこにおけるマルクスの『資本論』の意義と有効性を確認しているが、ポスト工業化社会における「ニューエコノミー」の可能性と構造改革への言及など、イデオロギーにシフトした一般のマル経学者と比べると、その頭の良さと柔軟さは際立っている。

 マルクスは、19世紀イギリスの産業社会から純粋資本主義を抽出して『資本論』を書いた。さらに宇野弘蔵氏は純粋資本主義の「原理論」を体系化して「宇野三段階論」をつくった。宇野弘蔵氏の弟子の大内力氏は戦後間もなくスタンフォード大学にも学んだ俊英だが、大内秀明先生は、東大の学部で大内力氏に、大学院で宇野弘蔵氏に学んだという。こう見てくると、「宇野弘蔵―大内力―大内秀明」という流れで、本書において「純粋マルクス経済学としての宇野理論」が完成したというのが私の印象である。

 マルクス主義者でもあり『資本論』を学んだウィリアム・モリスは、『ユートピアだより』を書いて、テムズ河の上流域にユートピアを夢見た。また、モリスを読んだ宮沢賢治は北上川にイギリス海岸を見て、そのまた上流域に「イーハトーブ」を夢見た。そして大内先生は、広瀬川の上流域にある作並の森の中に「賢治とモリスの館」をつくって、「これからは“科学から空想へ”だよ」とおっしゃっていた。

 こんなふうに書くと、昔だと「プチブル」と言われたものだが、本の中で先生が書かれているこれからの知識社会の中で、ますます重要になるのは、知的生産力とか創造力である。だいたい社会主義というか、新しい社会のあり方を国家とかインターナショナルのレベルで考えるのが、そもそもの間違いで、ロバート・オーエンのように「コミュニティ」のレベルで考える方が正しいと思う。そしてそれを「ユートピア」に近づけられるかどうかは、個人の創造力と生き方の問題であるというのが、私の実感である。

 一方、本書からの「コミュニティ」についてのもうひとつの示唆は、次のとおりである。本書のP175とP188において、不況期の再生産について、「不況期に失業者が増加するが、純粋資本主義のもとでは、家庭の家族の一員として生活をつづけると想定すればいいであろう。・・・いたずらに過剰人口による賃金の切下げや労働力の価値以下への低下などが強調され窮乏化革命論に利用されている。しかし、資本蓄積の裏側には家計部門の家族としての労働力の再生産があり、・・・拡大期に家族のなかの労働力が資本に吸収され、後退期には反発されて家庭に戻るが、後退期でも生き残った企業の就業者の賃金収入もあるし、拡大期におこなわれた家庭の貯蓄の取崩しなど、失業者も圭だ家計部門で生存することが想定されているのではなかろうか」と書かれているが、私の失業体験からしても、まさにそのとおりである。パート仕事をする女房と社会人だが未婚の息子がいるから、贅沢を言わなければなんとかなるのである。しかし、これが一人身であったり、家族に収入がなかったりすると事情は変わってくる。その時、家族に代わる新たなサポートシステムとしてのコミュニティが構想しうるし、かつてロバート・オーエンが構想した共同社会とは、まさにそういった構想になっていたのである。

 ポスト工業化社会、「ポスト資本主義社会としての知識社会」は、先生が本に書かれているように、「個性的で多様性に富んだ知識労働力 Knowledge Worker」 が、SOHO型のスモールビジネスを起業して、「資本家的生産方式へのオルタナティブ」や、NPOやNGOによる新たな公益活動を創り出すことが可能な社会である。私がKnowledge Workerであるかどうかを別にすれば、私はそういう生き方と働き方、そういうものとしてのコミュニティづくりを試行錯誤している真っ最中である。大内先生が展開された「恐慌論の形成」が、ポスト工業化社会における「コミュニティの形成」につながっているという発見は、久しぶりの知的興奮であった。

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コメント

大内です。
拙著の書評、拝読有難う御座います。勘のいい貴兄らしく、小生の意図を実に的確に捉えていて感心しました。貴兄と同じように読者が読んでくれるといいのですが?時代が変わりましたからね!

投稿: 大内秀明 | 2005年10月17日 (月) 14時42分

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