« 2005年9月 | トップページ | 2005年11月 »

2005年10月31日 (月)

『下流社会』

karyu  フリーというのは、自分で仕事を取るしかないのだが、年の終わりが見えてくるのに、次の仕事がなかなかみつからないというのが今月の状況で、最近は少々スランプ、引きこもり気味で、本も読めない。
 こんな時は気分転換にと、一昨日、図書館に行って大沢在昌を借りてくると、さすがはエンタテイメント、一晩で読んで気分転換。昨日は、近所の本屋で『下流社会』という新刊書を買ってきて、これまた一晩で読んだ。

「収入が年齢の10倍未満」
「その日そのひを気楽に生きたいと思う」
「自分らしく生きるのがよいと思う」
「好きなことだけしていたい」
「ファッションは自分流である」
等々の傾向がある人は、かなり「下流的」なのだそうだが、そうなると私など絵に描いたように「下流」である。もっとも本当の話だが。

 マーケティングを専門とする著者は、分析の対象を「団塊の世代」と「団塊ジュニア世代」ほかに分けて、著者の主要な分析対象と問題は「団塊ジュニア世代」の下流化、フリーター化、ニート化なのであるが、下流の人に足りないのは「中流であることに対する意欲」であるという。そして、その背景に「自分らしさ」を求めるという団塊の世代が生み出した価値観があるという。

 自分らしさを求めることの問題点について、著者は以下のように書いている。「“自分らしさ”や“自己実現”を求める者は、仕事においても自分らしく働こうとする。しかしそれで高収入を得ることは難しいので、低収入となる。よって生活水準が低下する。そういう悪いスパイラルにはまっているのではないかと推測される」(P158)、「能力がないのに夢だけ見ていて、いつまでも(自分らしさという)夢から覚めないのは問題だ」、「そもそも、自分らしさ志向が高いことは、自分らしさを持っていることを意味しない」、「自分らしさを志向すること自体はよいのだが、自分らしさを求めるあまり、階層意識と生活満足度の両方を低下させているのである」、「自分らしさ派は、未婚、子供なし、非正規雇用が多い」(P166~P168)。

 また、階層格差はコミュニケーション能力の格差によって規定されるとも書く。「“上”の男性は、性格が明るく、人の好き嫌いがあまりなく、人づきあいがよく、気配りができて、実行力があり、依存心が弱いということである。逆に“下”の男性は、性格が暗めで、優柔不断で、依存心が強めだと言える」(P205)、「コミュニケーション能力が高い男女ほど結婚しやすく、仕事もでき、消費も楽しむという一方で、コミュニケーション能力の低い男女ほど結婚しにくく、一人でいることを好み、消費にも意欲がないという分断が生じる。・・・言うまでもなく、上流の男性は上流の女性と、下流の男性は下流の女性と結びつきやすいのである」(P215)。

 もうひとつ、団塊ジュニアにおける郊外での「居住地の固定化というトレンド」について、「住む場所が固定化し、付き合う人間も固定化しているとすれば・・・昔ながらの村に逆戻りではないか・・・いつも同じ仲間とだけ会っている若者は、狭い村社会に住んでいた昔の農民とさして変わらない、いわば“新しい農民”なのではないかとすら思えるのだ」(P256~P257)書き、さらにインターネットについては、「インターネットは、人間が実際に出会う他者の数をもしかすると減らす危険もあり・・・井の中の蛙を増やすのだ。インターネットという世界への窓は、使いようによっては“バカの壁”となる。・・・“バカの壁”は知らぬ間に築かれる。そして築かれても、その存在に誰も気がつかず、壁の中の快適さに耽溺する危険がある。“バカの壁”はまた“下流の壁”でもあるかもしれないのだ」(P260~P261)と書いている。

 現在の若者のフリーター化やニート化の問題について、マーケティングの手法による分析で、示唆も多い。階層社会は、子の階層が親の階層によって規定されるが、社会の階層格差の固定化と下流社会化を防ぐために、最後に著者は下流における「機会悪平等」と上流における「ノブレス・オブリージュ」を提案しているが、なかなかの慧眼である。

 さて、次は私の感想である。団塊の世代の「自分らしさ志向」が、団塊ジュニア世代の下流化の原因だと言われると、さっさと中流から下りてしまって、あえて下流の道を行こうという私などその元凶そのものということになる。しかし、一般的には、「自分らしさ志向」故に下流化したというよりも、階層分化、もしくは競争に負けるか、降りるかした結果、「自分らしさ志向」を選択するのではなかろうか。とりわけ、経済のグローバル化、市場原理主義化、階層分化がすすむ現在にあって、就業に難儀する団塊ジュニア世代にとってはそうであろう。

 私は、努力して競争に勝ち抜くことを否定するつもりはないが、いくら下層から上昇するための「機会悪平等」の仕組みをつくったところで、階層分化の結果、「上流社会」の階層になれるのが数パーセントであるなら、「下流社会」に分類されざるをえない絶対多数は、「負け犬意識」にさいなまれるのでなければ、「自分らしい生き方」をするというのが、ふつうであるだろう。また、彼らが「昔ながらの村に逆戻り」しているというのも、競争的な市場社会の中にあって、言われるように階層を超えて関係がつくれるわけではないのなら、身近なところに自らの生活圏をつくるというのは、当然なことであると思う。

 グローバリズムの進展は、その一方でローカリズムを進展させる。アメリカがアメリカ流の市場経済をグローバル化させれば、ローカルな文化はそれに対抗するし、格差の底辺にはサブカルチャーが生じるのもまた当然である。差別されてきたアメリカの黒人社会は、ブルースやジャズを生み出した。否定されるべきは、サブカルチャーであるより、差別や格差を生み出す社会の方なのだ。

 著者はまた、「ヒッピー」みたいな生き方にも否定的である。マーケティングを専門にする人から見れば、あまり消費をしない人や低価格の商品を買う人は、いいマーケットにならないし、高付加価値の高額商品を買う人の方が望ましいし、そのためには人々が上昇するための「意欲」を持ち続ける方がいいに決まっているし、そういうものとしての競争的な市場社会が必要であるし、さらにそれはグローバルなレベルでも必要であると考えるのは理解できる。しかし、格差を拡大しつづけて「下流社会」化をすすめているのも、イラクで戦争をすすめているのも、その背景にあるのは、限りなく剰余を求める「上昇志向」が正しいという考え方と、グローバル資本主義というその仕組みなのである。その中でヒッピーとは、昔はビートと言ったものだが、それに同調しない生き方なのである。

 この歳になって、あえて資本主義を否定するつもりはないが、私が思うに「下流」の人々にとって必要なのは、「上昇志向」というよりは「向上心」なのだ。向上心は、タテ社会を上昇するためだけのものではない。おそらく向上心は、努力する人の数だけ多様にあるのだ。イギリスに留学して、あまりの格差にかノイローゼになった夏目漱石が、日本人に求めたものは西洋化のための「上昇志向」というよりは、「向上心」を持つことであった。夏目漱石が生きていたら、本書の評をうかがいたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月15日 (土)

恐慌論の形成とコニュニティの形成

kyoukou  先日、大内秀明先生の『恐慌論の形成』(日本評論社)の出版記念会があって、数少ない非学者系参加者として会の末席を汚してきたのだが、本をいただいたので、さっそく読んでみた。「恐慌論」という書名からして、なんで今さら「恐慌論」なのだろうかと思っていたのだったが、「恐慌現象の消滅は、恐慌論の消滅ではない」ということである。

 では「恐慌論」とは何かといえば、マルクスが『資本論』で解明した「近代社会の経済的運動法則」=「資本の絶対的過剰生産」と景気循環の必然性のことである。軽工業を中心にした19世紀型の産業構造が、重化学工業を中心にした20世紀型の産業構造に転換する中で、19世紀型の恐慌は消滅した。しかし、20世紀においても、資本の過剰と景気循環はくりかえされながらも、帝国主義戦争や冷戦=機軸通貨国家アメリカの産軍複合体制によるドルの垂れ流しとケインズ政策=有効需要理論などによって、資本の過剰と景気循環は調整され、恐慌の発生は抑制されてきた。

 では、ポスト工業化のすすむこれからの社会において、景気循環はどうくり返し、また調整されるのだろうか。「失われた10年」と呼ばれる90年代における日本経済の停滞は、資本・雇用・資金の3つの過剰の調整による停滞であったわけだが、勝ち組のアメリカにおいてもITバブルがはじけたように、景気は「投機的な変動をくり返す」ことを予測しながらも、大内先生が未来を見る目はそんなに暗くはない、というのが一読した感想である。

 これは、出版記念会で国学院大学教授の伊藤誠氏が挨拶の中で「最近のマル経は、暗い話ばかりだ」と言っていたのとは対照的で、大内先生の人柄もあるだろうが、やはり見識の広さと、大内先生の宇野経済学が宇野派の中でもとりわけ「純粋宇野経済学」であるからだろうと思われる。

 本書の中で先生は、古典派から新古典派、供給サイドの経済学から有効需要理論まで経済学説史を鳥瞰して、そこにおけるマルクスの『資本論』の意義と有効性を確認しているが、ポスト工業化社会における「ニューエコノミー」の可能性と構造改革への言及など、イデオロギーにシフトした一般のマル経学者と比べると、その頭の良さと柔軟さは際立っている。

 マルクスは、19世紀イギリスの産業社会から純粋資本主義を抽出して『資本論』を書いた。さらに宇野弘蔵氏は純粋資本主義の「原理論」を体系化して「宇野三段階論」をつくった。宇野弘蔵氏の弟子の大内力氏は戦後間もなくスタンフォード大学にも学んだ俊英だが、大内秀明先生は、東大の学部で大内力氏に、大学院で宇野弘蔵氏に学んだという。こう見てくると、「宇野弘蔵―大内力―大内秀明」という流れで、本書において「純粋マルクス経済学としての宇野理論」が完成したというのが私の印象である。

 マルクス主義者でもあり『資本論』を学んだウィリアム・モリスは、『ユートピアだより』を書いて、テムズ河の上流域にユートピアを夢見た。また、モリスを読んだ宮沢賢治は北上川にイギリス海岸を見て、そのまた上流域に「イーハトーブ」を夢見た。そして大内先生は、広瀬川の上流域にある作並の森の中に「賢治とモリスの館」をつくって、「これからは“科学から空想へ”だよ」とおっしゃっていた。

 こんなふうに書くと、昔だと「プチブル」と言われたものだが、本の中で先生が書かれているこれからの知識社会の中で、ますます重要になるのは、知的生産力とか創造力である。だいたい社会主義というか、新しい社会のあり方を国家とかインターナショナルのレベルで考えるのが、そもそもの間違いで、ロバート・オーエンのように「コミュニティ」のレベルで考える方が正しいと思う。そしてそれを「ユートピア」に近づけられるかどうかは、個人の創造力と生き方の問題であるというのが、私の実感である。

 一方、本書からの「コミュニティ」についてのもうひとつの示唆は、次のとおりである。本書のP175とP188において、不況期の再生産について、「不況期に失業者が増加するが、純粋資本主義のもとでは、家庭の家族の一員として生活をつづけると想定すればいいであろう。・・・いたずらに過剰人口による賃金の切下げや労働力の価値以下への低下などが強調され窮乏化革命論に利用されている。しかし、資本蓄積の裏側には家計部門の家族としての労働力の再生産があり、・・・拡大期に家族のなかの労働力が資本に吸収され、後退期には反発されて家庭に戻るが、後退期でも生き残った企業の就業者の賃金収入もあるし、拡大期におこなわれた家庭の貯蓄の取崩しなど、失業者も圭だ家計部門で生存することが想定されているのではなかろうか」と書かれているが、私の失業体験からしても、まさにそのとおりである。パート仕事をする女房と社会人だが未婚の息子がいるから、贅沢を言わなければなんとかなるのである。しかし、これが一人身であったり、家族に収入がなかったりすると事情は変わってくる。その時、家族に代わる新たなサポートシステムとしてのコミュニティが構想しうるし、かつてロバート・オーエンが構想した共同社会とは、まさにそういった構想になっていたのである。

 ポスト工業化社会、「ポスト資本主義社会としての知識社会」は、先生が本に書かれているように、「個性的で多様性に富んだ知識労働力 Knowledge Worker」 が、SOHO型のスモールビジネスを起業して、「資本家的生産方式へのオルタナティブ」や、NPOやNGOによる新たな公益活動を創り出すことが可能な社会である。私がKnowledge Workerであるかどうかを別にすれば、私はそういう生き方と働き方、そういうものとしてのコミュニティづくりを試行錯誤している真っ最中である。大内先生が展開された「恐慌論の形成」が、ポスト工業化社会における「コミュニティの形成」につながっているという発見は、久しぶりの知的興奮であった。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2005年9月 | トップページ | 2005年11月 »