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2005年9月22日 (木)

過ぎ去った海の思い出

   私が愛読しているブログに ottocent50s さんのブログがある。最近の「夏の過ぎ去った海」を読んで、以下のコメントを書いた。

 海といえば、下町の貧乏人は両国駅から内房線に乗って内房に行ったものですが、佐島に思い出があります。70年代の初めに結婚をして、当時、大学を中退して貧乏暮らしをしていたもので、新婚旅行は伊豆辺りとなったのですが、私に金持ちの友人がいて、ヨットを買って、私の新婚旅行に合わせて、ホームポートの佐島マリーナで進水式をあげてくれました。だから新婚旅行の最終日は佐島マリーナで一泊して、かみさんが新艇にシャンパンをかけて、正真正銘の meiden voyage をやったのでした。

 そんな折、昨日、1級小型船舶の海技免許の更新に行ってきた。会社勤めを辞めた後の5年前の更新の後、1度も船に乗ることもなくまた次の更新となった訳だが、過ぎ去った海の思い出にと更新したのだった。そんなで、ついでに ottocent50s さんにならって、私も「過ぎ去った海の思い出」を少しだけかいておくことにする。

 私の友人が購入したのは、ヤマハ15という当時売り出されたばかりのディンギーで、その後、私は彼のクルーとなって、佐島マリーナに通ってヨット遊びをした。夏が始まる前の、梅雨の合間の晴れた日の逗子以南の海岸は、海好きたちだけのリゾートといったふうであった。佐島マリーナは、海が大好きな森重久弥がつくったマリーナだが、その頃、日産が資本参加して改築されたばかりで、シーボニアや逗子マリーナと並ぶ本格的なマリーナであった。

 ある時、私がティラー(舵)を引いている時にブロー(突風)を受けて沈(艇が倒れること)をした。初めての経験で、訳も分からず艇にしがみついていると、シングルハンド(1人乗り)のディンギーがスーっと近づいてきて、「センターボードに乗って艇を起せ」「足で水を蹴って、スターン(艇の後部)から上がれ」と指示をしてくれて、やっとヨットに這い上がることができた。そして、やっと再帆走し始めると、またスーっと寄ってきて、ボコンといってパドル(櫂)を投げ込むとさっと去って行った。流れ出した私たちの艇のパドルを拾い上げて、投げ込んでくれた訳であるが、あまりの手際に、ひたすら感心するばかりであった。

 そんなy1c ことがあって後に、私は自分のヨットが欲しくなった。そこで2人の友人を誘って中古のディンギーを買うことにした。「舵」というヨット雑誌の「売ります欄」で探して、Y15というディンギーを買うことにした。売主は逗子マリーナに住む女性で、旦那がしばらく海外に行ったまま帰らないので売りたいとのことだったが、まだ新しい艇であった。亀戸で材木屋をやっている友人のロングボディのトラックで逗子マリーナに行って、Y15を載せると、久里浜からフェリーに乗って房総に渡り、私たちのホームポートとなる勝山マリーナに運んだのであった。

 勝山マリーナは勝山港と海水浴場の間の岩場にある小さなマリーナであったが、私たちが遊ぶにはちょうどよく、それ以降、週末になると友人のクルマで勝山に通って、ヨット遊びをしたのだった。

 勝山でヨット遊びをしていたある日、台風が近づく風の強い日であったが、材木屋の友人が帆走に出て、安定性のいいさすがのY15も強風のために浜の沖合いで沈をして、どんどん流されていってしまったことがあった。かみさんが海岸で心配そうにそれを見ていると、「どうしましたか」と声をかけてくれる2人の若い男がいて、かみさんが状況を話すと、「ボートを借りて助けに行こう」ということになって、マリーナからモーターボートを借りて、流れるヨットを追いかけて、おかげで、人もヨットも無事助けることが出来たのだった。

 2人の若い男は、その日、BW21という小型のクルーザーで勝山港に寄港していて、偶然助けてくれたのだったが、その晩、ウィスキーを買って、港に泊められた小型クルーザーを訪ねて、お礼をした。それから、小林さんと山本さんというその2人とのつきあいが始まり、やがてみんなでもっと大きいクルーザーを共同所有しようということになり、1970年代末に、みんなでSK31という31フィートのクルーザーを購入した。このSK31というヨットは、渡辺修治という日本人が設計した名艇であっy2cたが、メy3cンバーが増えて手狭になり、次にエリクソン37というヨットに換え、その次はヤマハ34へと乗り換えた。(左の写真は、下田沖のエリクソン37 )

 ホームポートは、浦安マリーナであった。1970年代末の浦安は、ディズニーランドもなく、現在、大学やマンションの立ち並ぶ一帯は荒涼とした埋立地であって、その埋立地を流れる境川という川に、当初は不法繋留してしていたのであったが、不法繋留対策にと、第3セクター方式の浦安マリーナがつくられたのだった。

 みんなy6c下町中心に住んでいて、大して金持ちでもなかったが、時代は右肩上がりの経済の真只中であったから、中古ヨットの共同所有であれば、ヨット遊びをするのは、そんなに難しいことではなかった。私はゴルフ遊びには興味はなかったが、ゴールデンウィークや夏休みに、横浜、三浦、房総、伊豆諸島、下田辺りにクルージングするのは、メンバー全員の楽しみであった。

 そんな訳で、私も1級小型船舶の海技免許をとった訳であるが、6年前に会社勤めを辞めた時に、ヨット遊びも止めたのだった。だから、海技免許は私にとって唯一のバブル経済の置き土産であり、過ぎ去った海の思い出であるのだった。

 会社勤めを辞めて仕事探しをしている時に、「警戒艇船長募集、要1級小型船舶免許」の募集広告を見たことがあった。ダルマ船みたいな船で、運河や護岸工事の交通整理みたいなことをやる仕事で、勤務時間が長い上に時給が安いので遠慮したが、この先、いい仕事にめぐり合えなくて、この際などと思う時があったりすると、海技免許が役立ったりするかもしれない。

 ジャック・ケルアックは、"The Dharma Bums(達磨行者たち)"の後に、荒涼峰の山頂で森林監視員の仕事につき、"Desolation Angels(荒涼天使たち)"を書いた。ならば私は、ダルマ船で監視員をやりながら、「ダルマ船上のダルマオヤジ」でも書くかななどと、馬鹿なことを想ったりもするのだった。

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コメント

逆TBを掛けさせてもらいました。
素晴らしい免許、憧れでした。

投稿: ottocento50s | 2005年9月23日 (金) 07時47分

若い平山さん 何もかもが光っていた時代

投稿: kaji-G | 2005年9月23日 (金) 18時32分

若い平山さん 何もかもが光っていた時代

投稿: kaji-G | 2005年9月23日 (金) 18時33分

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» 夏の過ぎ去った海 [昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!]
学生の頃、どこの海に行ったことが多いのだろうかと考えると、 やはり三浦半島ということになる。 もちろん江ノ島も、鎌倉も、千葉の海にも、伊豆の海にも行ったが、 手軽さ、回数からいうと三浦半島になる。 いつも京浜急行で出かけた。すか線には材木座行きくらいしか記憶が無い。 海に行くには、広軌で揺れながら沿線の軒先すれすれにガンガン走る、 赤と白の京急しかなかった。 そして、どうゆうわけか行�... [続きを読む]

受信: 2005年9月23日 (金) 07時45分

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