« ワーコレとコミューン | トップページ | 辻潤と低人教コミューン »

2005年6月 8日 (水)

中里介山『大菩薩峠』とコミューン

 要は、私は「人と人とをつなぐものは何か」「自由に生きるとは何か」ということを、このブログで、あれこれ雑文しながら考えてみようと思っている訳だが、「コミューン」という昔から惹かれた魔語について、あと少しだけ雑文をしてみようと思う。

 コミューンというと思い浮かぶのは、パリ・コミューンと秩父困民党コミューンである。

 プロシヤとの戦争に敗れ、プロシヤ軍の包囲と入城を前にしたパリで、第二帝政崩壊後の政府が、プロシヤ軍よりも国民衛兵を恐れて、パリ防衛のための大砲を取り上げようとしたことに対して、1871年3月18日、パリの民衆は立ち上がる。パリ・コミューンである。
 「1871年3月19日。一都市の上に最も美しい曙光が輝く、それは新時代への期待、予感、前兆が成就されるにいたる最も華麗な夜明けであり、夢であり、“ユートピア”である。・・・パリは、自由なものとして目覚める。都市というものが存在して以来の最初の自由な都市である。パリは新しい生活を試みようとする。その新たな生活のなかで、人々は自らの運命を自己の手に握るであろう。大きすぎもせず、小さすぎもしない限られた社会的基盤一地区(カルチェ)-の上で、人々は公共の仕事、自分たちの仕事に参加しようとする。彼らはこの基盤の上で、自己管理、喜びのなかでの自由な労働を創造しようとする。彼らは地方分権を組織しようとする」(H.ルフェーブル『パリ・コミューン』)
 中央委員会に結集した無名のコミュナールたちは、プルードン主義にもとづく「地方分権と連合主義の実現、すなわち社会を自由な連合組織の統一体に根本から変えること」をめざしたが、その2ケ月後の5月28日、ヴェルサイユ軍により最後の抵抗が-掃され、パリ・コミューンは終焉する。

 パリ・コミューンから13年後の1884年に、日本でも秩父を“無政の郷”と化した秩父困民党の蜂起、秩父事件というよりは、秩父困民党コンミューンが起こった。
 パリ・コミューンが第二帝政下での経済成長と労働者の窮乏化を背景に起こったように、秩父コンミューンは、絶対権力化と資本の蓄積を強行する明治政府への反発とデフレを背景に、窮乏化した農民が負債の延納、雑税の減少を要求して起こり、自由民権運動の最後を飾った蜂起であった。
 11月2日大宮郷(現秩父市)を見下ろす寺に結集した野良着の農民軍は、鐘の乱打と共に大宮郷になだれ込み、高利貸しと郡役所と警察署を襲った。蜂起は、9日間にわたる遊撃戦の後、八ヶ岳の山麓に潰えたが、秩父は当時の国策産業である生糸の生産を通じて世界につながっており、パリ・コミューン後に成立したフランス第三共和国は清仏戦争の最中であった。

 秩父困民党コンミューンの翌年、1885年に中里介山は、自由民権運動の余韻が残る多摩に生まれた。中里介山の代表作、全20巻の大著『大菩薩峠』は、1913年から書き始められ、1941年まで書き次がれ、敗戦の前年に中里介山が死ぬことでnakazato、未完のまま残された。内容的には、今から約150年前の1853年、ペリーが初来航した年から、明治維新の前年の1867年までの幕末を時代背景として書かれており、書かれたれた当初から大衆受けして評判となり、戦後も市川雷蔵が演じる机竜之介と必殺音無しのかまえで人気映画となったが、そこに中里介山が書こうとしたものは、果たして何であったのだろうか。読後の感想を一言で言えば、それは剣豪小説であるというよりは、一種の「コミューン論」であった。

 「甲源一刀流の巻」に始まるように、当初の企画は剣豪小説であったのかもしれない『大菩薩峠』は、書き始められてから30年近く経た最後の巻を、駒井の殿様を中心とする一団が日本を脱出して南の島でコミューンづくりを試みる「郁子林の巻」で終わっている。さらに私が驚いたのは、一団がたどり着いた南の島には既に西洋人の先住民がいて、駒井の殿様に、ロバート・オークェンの協同社会づくりの試みの失敗を例にして、駒井の殿様たちのコミューンづくりの失敗を予告することであった。
 私は、失業するまでは長い間、協同組合に職を得ていて、ロバート・オーウェンを尊敬し、協同社会づくりを夢みながらも、それらの困難さをますます痛感するところであったから、『大菩薩峠』の最終巻にたどり着いた時には、もうほとんど目からウロコの心境となったのだった。

 では何故、中里介山は死ぬまで『大菩薩峠』を書き続けたのだろうか。そして何故、ペリー来航の年から始まった物語は明治維新を迎えることもなく、そして何故、未完のままに終わったのだろうか。若き中里介山は、幸徳秋水に共感し、明治36年に幸徳秋水らが創刊した週間『平民新聞』に寄稿したりしていたが、『大菩薩峠』が単なる剣豪小説でなく、机竜之介が単なる音無しのかまえのニヒルな剣士ではなく、「無明」の世界を生きる者として再構成されていったきっかけには、大逆事件と幸徳秋水の刑死であったと言われている。
 おそらく、多くの近代の優れた文学者や知識人たちが明治維新を問い、日本の近代化を問うたように、中里介山もそれを問おうとしたのだと思う。

 中里介山は時代を多面的に描こうとして、同時進行的に多様なキャラクターを登場させる。そして、その誰もが魅力的だが、終盤に入ると『大菩薩峠』の内容は、お銀様と駒井の殿様による二つのコミューンづくりへと展開して行くのは、また何故だろうか。明治維新、もしくは日本の近代化のオルタナティブの模索であったのだろうか。
 二つのコミューンづくりとは、駒井の殿様のコミューンと、お銀様のコミューンである。駒井の殿様のめざすコミューンとは、近代的な理性と合理性にもとづく、ロバート・オーウェン的な民主的な協同社会である。-方、銀様のコミューンとは、お銀様という知力、財力、指導力の優れたいわば独裁者によるソヴィェト型もしくは国家社会主義型の人民共和国である。しかし、二つのコミューンの描かれ方は、近代の戯画である。
 お銀様に竜之介は言う。「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。・・・人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」と。中里介山は書く。「すべての人が、その領土に於いて、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠り、駒井甚三郎は海に拠り、竜之介は夢の中に生きている」と。

 中里介山は、1922年に高尾山に草庵を結び、御岳山麓に移り、1930年には羽村に西隣村塾を開いた。それらは農業と教育を一体化した、自らが拠って立つ根拠地であった。松本健一氏は、それを「一定の土地において自給自足の生活をつづけることによって、現実社会のありようと括抗する、いわば-種のコミューン形成の開始である」「農本的アナキズム」(『中里介山』)と書いている。
 1942年、中里介山は日本文学報国会より評議委員に選出されたが、それを拒否した。それは、食料を自給自足でき、印刷所まで持った自らのコミューンに拠り、未完の『大菩薩峠』の先に、不可視のコミューンを求めればこそであったと、私には思われる。

|

« ワーコレとコミューン | トップページ | 辻潤と低人教コミューン »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/113260/4462641

この記事へのトラックバック一覧です: 中里介山『大菩薩峠』とコミューン:

» 都市 [世界・各国・万国]
都市都市(とし)とは、村落に対して、人口・人口密度が大きく、第二次産業|第二次・第三次産業に従事する人の割合が高く、住居以外の用途に当てられる建造物、施設の数も多い規模の大きな人間の集合体のこと。都市のうち、居住に供する部分を市街地という。歴史的には、こうした都市の内、その国の行政、文化、祭式の中心...... [続きを読む]

受信: 2005年6月 9日 (木) 22時29分

» 『パリ・コミューンの詩人たち』(大島博光、新日本新書) [蛍雪日記]
詩の引用の続きです ―――――引用開始――――― 『バリケードの上で』(ヴィクトル・ユゴー) 罪ある血に汚され 無垢な血に洗われた 舗道のまんなかに聳えたバリケードの上で 十二歳の子供がひとり 大人といっしょに捕まった 「おい おまえは こいつらの仲間なのか?」 「ぼくらはみんな仲間だよ」子供は答えた 「よし お前も銃殺だ 順番を待っていろ」と将校が言った 子供は眼(ま)のあたりに見る 銃口が火を吹いて 仲間�... [続きを読む]

受信: 2005年8月26日 (金) 10時49分

« ワーコレとコミューン | トップページ | 辻潤と低人教コミューン »