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2005年6月 8日 (水)

辻潤と低人教コミューン

tuji  中里介山が生まれる前年の1884年2月に、自由党左派の大井憲太郎が秩父を訪れ、それを契機に秩父自由党員が増え、困民党の蜂起にもつながるのだが、同年に大井憲太郎が起こした大阪事件で爆弾の運び役をやり、後に大井憲太郎と結婚、離婚した女性に福田英子がいる。福田英子は『妾の半生涯』を書き、幸徳秋水らの平民社にも関わり、アナキスト石川三四郎の年上の愛人でもあった女傑だが、彼女が滝野川の中里に住んでいた頃、その近くの染井に辻閏が住んでいた。

 辻潤は、近代日本女性史の中で燦然と輝く伊藤野枝に惚れられて妻にめとり、彼女を大杉栄に寝取られながらも、マックス・シュテイルナーの『唯一者とその所有(翻訳名:自我経)』の翻訳者として大正から昭和にかけての一時期にフアンを得た実存系アナキストである。伊藤野枝と同棲を始めた辻閏は、染井に家を構え、近くの福田英子宅に出入りしていて、そこで渡辺政太郎に会い、仲がよくなった。

 渡辺政太郎は「白山の聖人」と言われたアナキストで、白山上は南天堂の二階に住んで、後に「北風会」となる研究会を主催していた。そして、その渡辺政太郎が辻潤の家に連れてきたのが、大杉栄であった。
 「(野枝さんは)ひどくゴルドマンの思想に影響されて、やがて日本のゴルドマンになろうとする程の情熱を示してきた。・・・野枝さんは至極有名になって、僕は一向にふるわない生活をして、様様と暮らしていた。・・・そこへ大杉君が現れてきた。一代の風雲児が現れてきた。とても耐ったものではない」(1923年『ふもれすく』)
 伊藤野枝は大杉栄のもとに走り、辻潤は浅草にパンタライ(万物流転)社を構えて「英語・尺八・ヴァイオリン教授」の看板を掲げ、やがて、比叡山の宿坊にこもってマックス・シュテイルナーの『唯一者とその所有』の翻訳をすすめ、『自我経』の教祖となった。

 伊藤野枝が去った後、辻潤は「(野枝さんから解放されて)後存知のようにボヘエムになってしまった。心機一転して、僕自身にかえり、僕は気優にいきてきた」と書いているが、酒におぼれ、尺八を吹いて放浪をするようになる。そして、1923年9月16日、「夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔付きをして俗謡のある-節を口ずさみながら膜臆とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた。・・・Y港へ来ると、早々新聞記者がきて、大杉他二名に対する感想を話してもらいたいといった」(1923年『ふもれすく』)。
 辻潤は、関東大震災の直後に大杉栄と共に虐殺された伊藤野枝の思い出を書くように雑誌社に頼まれて、『ふもれすく』を書いた。「野枝さんや大杉君の死について僕はなにもいいたくはない」とあった。「しかし、僕は野枝さんが好きだった」の一言を読んだ時に、私は大杉栄が嫌いになったのだった。

 私は、大学を中退した後に文京区は白山上の南天堂という書店に働いたことがあった。大正期の南天堂の二階にはレストランがあって、そこには大杉栄や渡辺政太郎や辻潤や萩原恭次郎や岡本潤や林芙美子といったアナキスト、ダダイストの詩人がたむろしていたということであったが、当時、辻潤はすでに忘れられた思想家であった。

 会社勤めを辞めて失業生活を始めた頃、私は辻潤の本を探すのに、深川図書館に行った。1909年開設の東京市立図書館であった深川図書館には古い蔵書があって、非公開の書庫から1936年刊の『子々以前』という本を借りたら、そこには、萩原朔太郎が『辻潤と低人教』という一文を寄せていた。
 「彼の周囲にはいっも市井のルンペンや労働者が集っている。人生に敗惨した失業者や無職者は、彼によって自分の家郷と宗教を見出すのだろう。・・・彼はこれ等の弟子たちに囲まれながら、絶えず熱心に虚無の福音を説教している。・・・ヨタのでたらめを飛ばしながら説教する。そこで彼の弟子たちは不敬にも師のことを「辻」と呼びつけにし、時には師の頭を撲ったりする。これは不可思議な宗教である」「辻潤のような文学者が、日本に生まれるということは悲劇である。彼の日本で生くべく道は‥生活者としての自我に孤立する外はないであらう」「或る多くの人にとって彼はたしかにアナアキイ的無頼漢であるにちがひない」と。辻潤の周辺は、まるで低人数コミューンである。

  朔太郎以外にも、辻潤は詩人と縁がある。無名の宮沢賢治の『春と修羅』をいち早く評価したのも辻潤であるし、1927年には中原中也が辻潤を訪ねて来てもいる。中原中也は、京都以来同棲していた長谷川泰子を東京に出て来て間もなく小林秀雄に寝取られていたが、辻潤もかつて伊藤野枝を大杉栄に寝取られた男だったことを知っての訪問であったのだろうか。中原中也は、1937年に精神病院を入退院した後、死んだが、辻潤も1932年頃に発狂して精神病院の入退院をくり返しながら、1936年頃より全国を放浪した。そのスタイルは、尺八一管の門付乞食であり、全国のフアンを訪ねての無心と居候であったという。

 発狂前後の文章には、次のようにある。
 「僕にだって昔はユートピアの夢位はあったが、それはとっくに消え失せてしまったのだ。むしろ人間が役にも立たんユートピアを夢みることによって、醸し出す行為がよけい人生を不幸に陥れているとさえ信じている。・・・自分は詩人ではないが、ひどく空想癖が強く、世間的なことにあまり興味を持たない人間である。社会人としてはまずゼロである。・・・自分で今まで生きて来られたということは考えると奇蹟に近い。」(1931年『のつどる・ぬうどる』より)。「およそこの世の仕事の如何なる種類を問わず、自分が満足に出来るようなことは見渡す限り一ツだってありそうにも思われなかった。しかしなんとかしていきてゆかねばならない。」(1932年『天狗になった頃の話』より)。

 1930年に大恐慌が発生し、これらの文章はその最中に書かれたものである。恐慌は適者生存の市場原理と、市場原理を統制しようとする国家主義的ファシズムを招いた。そして、辻潤の生き様とは、まさにそれらの対極にあったが故に、時代の中でその可能性を閉ざされてしまう。アグレッシブに生きずに無為自然に、受け身に生きようとしたことの結果であると言ってしまえばそれまでだが、1937年に31歳の若さで中原中也が亡くなり、1942年には萩原朔太郎が57歳で亡くなったことを思えば、器用に身過ぎ世過ぎのできなかった辻潤の死も、その延長にあったのではないかと思われる。

 辻潤はアナキストかと言えば、労働運動や直接行動をした訳でもなく、いわゆるアナルコサンジカリストではない。本人はアナキストと言われることを嫌がったそうだが、シュテイルナーがアナキストであるなら、辻潤も間違いなく実存系のアナキストであり、辻潤からすれば、大杉栄は「憑かれた人」のひとりであったにすぎない。プルードンによれば、アナキズムの弁証法は、階級間の対立によるのではなくて、権威と自由の対立に基礎をおく。「万物は自分にとって無である」とした辻潤は、「“辻”という人そのものが、それの表現された“作品”なのであり」(萩原朔太郎)、アナキズムなのであった。

 もし辻潤が敗戦後も生きていたらと思うことがある。中里介山も、萩原朔太郎もしかりである。しかし、敗戦後も生き残った太宰治が、間もなく自殺してしまったことを思えば、戦前も、戦後も大した違いは無かったのかもしれない。

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