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2005年6月13日 (月)

クレスビ・ダッダ

 ブログを始めて一週間、初めてのコメントがありました。ottocento50sさん、ありがとうございます。

  私の友人にTBS番組「世界遺産」のプロデューサーをしていた男がいて、昨年、彼が撮ってきた世界遺産にもなっているロバート・オーウェンのニュー・ラナークの放映があって、彼とその話をしていた時に、彼が「イタリアのクレスビ・ダッダという所にも、ニュー・ラナークと同じような所があるよ」と言って、彼が撮ってきたクレスビ・ダッダのビデオを見せてくれましたが、私の感想は、ニュー・ラナークとクレスビ・ダッダは少し違うかなということです。
 前に書いた「理想社会」の二つの型、国家社会主義型とロバート・オーウェン型で言うと、クレスビ・ダッダは、ムッソリーニの国家社会主義ならぬ、資本家による企業社会主義のような気がします。そしてクレスビ・ダッダは、1929年に始まる世界恐慌の影響を受けて崩壊したのでした。

 ottocento50sさんは、「明治維新の頃まで統一国家ではなかったイタリアの原点は、小さな村や町単位に構成されていたコムーネです」と教えてくれました。(※コメント参照)コムーネというのは、コミューンのイタリア語読みでしょうか。私はイタリアには不案内なのですが、協同組合の世界では、イタリアには生産協同組合や自主管理の伝統があること、ポポロと呼ばれる労働者の家、レガと呼ばれる協同組合の全国組織があることなどが知られています。そしてそれらの中には、コムーネの伝統が引き継がれているのかもしれませんね。

 また、ottocento50sさんが言われるように、ヨーロッパの国々には共同体による自治の伝統があって、その伝統がアメリカの市場原理型資本主義とは違う、ヨーロッパ型の資本主義やEUの中に生かされているのかもしれませんね。
 その辺りのことは、もう少し後でふれたいと思っていますが、ここで私の公式主義的近代理解をおさらいしておけば、共同体と共同体の間の交易で市場が生じ、産業革命によって市場が広がり、民族的統一国家の成立と併せて国民経済が成立する、となります。

 さて、前章で書いたアメリカに生じたコミューン、アメリカ革命とも言うべきトクヴィルの見たアメリカは、その後どうなるのでしょうか。アメリカのコミューンは、ottocento50sさんが言われるようにヨーロッパにあった共同体が移民と共に引き継がれたというよりは、宗教上の理由でカルヴィニストが、経済的な理由で本国で食いはぐれたか、一攫千金を夢見る者が新天地に移住したものの、先住民の住む未開の地で生きていくためにコミューンがつくられたものと思われます。
 そしてアメリカは、イギリスからの独立戦争を戦い、ヨーロッパ諸国が未だ専制政治の時代にある中で、「すべての人間は生まれながらにして平等である」の独立宣言、「連邦主義・三権分立・民主主義」による共和制、「天は自ら助くる者を助く」の開拓者精神でアメリカ革命を行ったのでした。

 私が青春の頃、アメリカはベトナム戦争をやっていて、私はアメリカが嫌いで、近代市民革命はフランス革命に始まり、ナポレオンのイエナ入城を目前にヘーゲルは『精神現象論』を書き上げ、やがてマルクスは・・・、などと思っていたのでしたが、この歳になって、よく歴史を見てみれば、アメリカ革命のリアクションがフランス革命なのでした。

 その後アメリカは、19世紀を通じて西部開拓を行い、産業を発展させ、20世紀に入ると2度の世界対戦を経て覇権国家となり、現在では「アメリカ革命の理念である自由と民主主義こそ、近代社会の普遍的理念である」とばかりに、世界中にアメリカの利益につながる政策をおしつけつつあります。
 トクヴィルの見たアメリカのコミューンはどこに行ってしまったのか。帝国化しつつあるアメリカは、アメリカ革命の延長にあるのか。

 さて、これを問いだすと、「近代とは何か」という大きな問題になってしまって、書くのがたいへんそうなので、今日はこれまで。ブログにはまり込んだ一週間でしたが、明日からはまた職さがし、仕事さがしです。

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トクヴィルの「アメリカの民主主義」

 ロバート・オーウェンが、後にマルクス主義者から「空想的社会主義者」であると揶揄されるのは、ニューハーモニー・コミュニティの失敗によるのだが、マルクス主義者がつくった社会主義国家も、ニューハーモニー・コミュニティの失敗に通じる要因で崩壊した。
勝ち残ったのはアメリカということになるのだが、ではアメリカとは一体どんな国なのか、自由と民主主義の理念、市場原理主義、グローバリゼーションと共に「帝国化」がすすむのか、市場原理主義の蔓延と共に人と人とのつながりが稀薄化していく中で、それへの対抗運動はどうつながり合えるのか、そういったものとしてのコミュニティは可能か、そんなことを少しだけ考えてみたい。

 ロバート・オーウェンが、ニューハーモニー・コミュニティの実験に失敗したすぐ後に、当時のアメリカ社会を見て歩いたフランス人にアレキシス・ド・トクヴィルがいる。トクヴィルは、1831年から1832年にかけて独立後間もないアメリカを視察して、americaそれを『アメリカの民主主義』にまとめた。
 会社勤めを辞めてフリーになった私は、金はなくても時間だけはたっぷりあるので、それまで読みきれなかった大著に手をつけ始め、中里介山『対菩薩峠』の次には、トクヴィルのアメリカの民主主義』を読み出したのだった。

 「大多数のヨーロッパ諸国では、政治生活は社会の上層に始まって少しずつ不完全に社会全体の種々の部分に伝わっているのである。これに反して、アメリカでは、共同体(コムミューン)が郡以前に、郡は州以前に、州は連邦以前に、それぞれ組織されている。」
 「ニュー・イングランドでは1650年以来共同体は完全に決定的に組織されている。・・・共同体のうちには、全く民主的なそして平和的な真の活気あふれた政治が支配している。・・・共同体ではすでに共和制が全く生きてはたらいている」
 「共同体は、あらゆる種類の司令官たちを任命し、自らに課税し、租税を自らに割当て、徴収する。ニュー・イングランドの共同体では、代表制の法律は認められていまい。すべてのものの利益にかかわることがらは、アテネにおけると同様に公共の場と市民の全体会議とで処理される」

 同書日本語版の訳注にはこうある。
 「当時ニュー・イングランドのコムミューン(英語ではTownship)は人口2000~3000位の小さな村であったので、そこではルソーが当時スイスのジュネーブで見出したように民主主義は代表制によらず、直接選挙制で行われることができた。トクヴィルはアメリカの民主政治の基本構造が、このコムミューンに見出され、これが郡を経て州に及び、遂に連邦に達していることを知ったのである」と。

 一読した感想はこうである。「なんだ、アメリカ自体がコミューンの連合体だったのか」である。

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2005年6月11日 (土)

ロバート・オーウェンと“ニューハーモニー”の失敗

owen  「中里介山『大菩薩峠』とコミューン」のところで少し触れたが、『大菩薩峠』の物語は1853年のペリー来航の年に始まり、日米開戦の頃に、その最後の章にロバート・オーウェンを語る西洋人を登場させたところで中断し、終戦を待たずして中里介山は死んだ。このことと中里介山の提起したものは、けっこう重い。

 ひとつは、日本とアメリカの関係である。日本とアメリカの関係が始まって、約150年が経った。日本は、黒船で脅されて無理やり開国させられ、和魂洋才、臥薪嘗胆とアンビバレントな感情で欧米に対応しながら、一度はアメリカに反抗してみたもののボコボコにされてしまい、その後は日米安保条約を結んで、自らはひたすら経済成長を追及し、アジアの国々に対しては大して詫びもせずにやってきた。そして昨今の日本は、アメリカ型市場経済が世界中を席巻するのに合わせて、アメリカの圧力の下に自らをますますアメリカ化させつつあるが、アジアの国々との関係も含めて、果たしてこれでいいのかという問題である。

 もうひとつは、中里介山が追い求めた「理想社会」についてである。前にも書いたが、中里介山はお銀さまと駒井の殿様という二人の登場人物に、それぞれ国家社会主義型とロバート・オーウェン型の「理想社会」の追及をさせる。お銀さまが企てた国家社会主義型は直ぐに失敗し、『大菩薩峠』の最終章で、駒井の殿様は同志を集めて「理想社会」を創るべく南の島へと向かうのだが、たどり着いた南の島にはすでに西洋人がいて、駒井の殿様にこう語るのである。

 「駒井さん、あなたの理想はよくわかります。地上に理想郷を作ろうという企ては、今に始まったことではないのです。・・・最近では、ロバート・オーウェンという人が、それを実行しました。・・・」・・・
 「もう少しくわしく、その人のことを話してみてください」
 「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です。駒井さん、あなたの理想も、事業も、その轍を踏むにきまっています、失敗しますよ」

 この結論は、先の「ワーコレとコミューン」に書いた「成功したコミューンなどあるのか」という問いと同じで、『大菩薩峠』の最終章を読み終えた時は、目から鱗ではあったのだが、そもそも私のこのブログのモチーフと出発点は、まさにそこからなのである。
 トルストイアンであった中里介山は、羽村に西隣村塾という印刷所まで備えた謂わばミニコミューンをつくり、そこに拠って時代をしのいだ。それとアナロジーするつもりはないが、私はこの春から足立区千住関屋町の自主生産企業「パラマウント製靴共働社」の2階を借りてNPO自主事業サポートセンターを起し、そこに自らのDTP仕事の事務所を構えた。そして、私にとっての「理想社会」は、ここから始めるのである。

 私の問いはこうである。「では、なぜロバート・オーウェンは失敗したのか」である。
 ロバート・オーウェンの失敗とはいっても、ロバート・オーウェンは失敗の人生を歩んだ人ではない。ロバート・オーウェンを「ユートピア社会主義者」と呼ぶのは、マルクス主義者の悪い揶揄で、ロバート・オーウェンの人生は、思想、実業、社会運動のどれをとっても、その実践は輝かしいものである。
 ロバート・オーウェンの失敗とは、イギリスのニューラナークでの工場運営に成功を収めたロバート・オーウェンが、より広い土地でのコミュティ・プランを実践するために、1825年にアメリカのルイジアナ州のニューハーモニーで「理想社会」の実験を始めたが、わずか2年で崩壊したことである。

 では、失敗の原因は何なのかといえば、一言でいえば、20世紀末の社会主義の崩壊を先取りしたミニ社会主義の崩壊である。準備や資金の不足もあったであろうが、閉ざされた共同体的空間で、理念を当てにした人々が、共有社会であるが故の生産への動機づけを欠けば、生産は回らず、物資も不足し、やがて統制と諍いが始まるのは目に見えている。
 当時の資本主義の野蛮さから弱者を守るのに、組合やコミュニティをつくることは有効であったとしても、それが市場経済の中で成り立つ仕組みをつくらなければ継続は難しい。また、市場経済とは別に農業主体の共同体をつくるというやり方も考えられるが、かつての中国の人民公社ではないが、その社会はだいたいは長老支配による自由の領域が乏しい悪平等社会になってしまうのである。

(以下、事項)

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フィリップ・マーローの生き方

longgoodbye  ハードボイルドミステリー、クライムノベル(犯罪小説)というのは、謂わば消耗品的小説で、謎解きが解ってしまえば再読されることは少ない。だから北方謙三も大沢在昌も、次から次へと量産するのだが、まれに何度読み返しても読まされる、謂わば文学の域に達しているハードボイルドミステリーがある。私的には、前章でふれたハメットの『マルタの鷹』もそうだが、レイモン・チャンドラーの『長いお別れ』などがそうである。

 「私がはじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼は<ダンサーズ>のテラスの前のロールス・ロイス“シルヴァー・レイス”のなかで酔いつぶれていた」の書き出しに始まるフィリップ・マーローと酔漢テリー・レノックスの出会いと別れ、あらためて解説するつもりはないが、私的に読めば、これは男の友情の物語である。
 「人と人とをつなぐもの」とは一体何かと問うた時、それは共に働く職場であったり、共に生活する地域であったり、共通する利害であったり、契約であったり、果てまた綱領的な結合であったりといろいろとあるが、その大きなひとつに友情がある。

 私は『長いお別れ』を3度読んだ。夏目漱石の『こころ』も3度読んだ。ジャンルは異なるが、両方の作品に共通するキイ・ワードは「友情」である。しかし、小説の中では友情と裏切りはいつでもセットになっていて、日本の近代文学の場合、だいたい一方が死ぬか、零落するかして、双方が傷つくストーリーが多いが、フィリップ・マーローとテリー・レノックスの別れは、「彼は立ち上がった。私も立ち上がった。彼がしなやかな手をさしだした。私はその手を握った。『さよなら』」である。
 この感覚の差は何かというと、友情とは共同体的な関係というよりは、個人の生き方がベースになった関係であるからだろうと思われる。

『長いお別れ』の次に書かれた『プレイバック』には、次の有名な語りがある。
“How can such a hard man be so gentle?” 
“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”
 「あなたのようにハードな男が、どうしてそんなに優しくなれるの?」
 「ハードでなければ生きていけない、優しくなければ、生きていく資格がない」
とか訳されている名言だが、これはフィリップ ・マーローの信条である。

 前章で書いたハメットの場合、小説の登場人物がそうであるというよりは、ハメット自身がそうであったように、人との関係以前に、自らの信条がある。人を裏切らないという生き方は、本人にそういうものとしての自らの信条と生き方がなければ、できないことである。

 相手が学友であれ、職場の同僚であれ、同じ組織の仲間であれ、それを当てにすると、友情とはけっこうはかないものである。職場での人間関係は言わずもがなだが、友愛や団結を掲げる組合などでも、仲間同士のけんかや分裂は、もうあたりまえのことでもある。また、裏切りがあるのは、それぞれの都合や利害が絡むからではあるのだが、では友情は利害のないところにしか成立しないかと言えば、そうではない。
 友情は出会いから生まれるが、それが成り立つのは、また逆に裏切りがあるのは、相手の責任ではない。自分に生き方がなければ、出会いもない。友情とか連帯とかは、それぞれの生き方が「共感」し合うところに成立するのである。

 だから友情は、それぞれの信条が異なっても成立する。それぞれが自らの生き方を持っているなら、左翼と右翼の間にも友情は存在する。一方、己を持たずに理念や組織だけを当てにした生き方をすれば、例えその理念が友愛でも、協同の精神でも、相互扶助でも、お互いを同志だと呼んだとしても、必ずしもそういう関係にはならないのである。

 「人と人とをつなぐもの」とは何か、これまでのところからは、そのキイワードは「信条」と「共感」であるとしておきたい。

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2005年6月 9日 (木)

ダシール・ハメットとIWW

hammett  ビートゼネーレーションの前の世代が、ロストゼネレーションであり、その代表作家のヘミングウェイの文体はハードボイルドであるが、同じ時代にハードボイルド小説の元祖となった作家にダシール・ハメットがいる。

 日本映画の歴代ナンバー・ワンを選ぶと黒澤明の『七人の侍』が選ばれるのと同じように、ハードボイルド・ミステリー歴代ナンバー・ワンを選ぶと、ほぼダシール・ハメットの『マルタの鷹』となる。個人的には、レイモン・チャンドラーの『長いお別れ』が好みだが、ハメットの『マルタの鷹』がナンバー・ワンであることには、何の異存もない。
 ある日、酒好き女好きで金には縁のない私立探偵事務所に美女が相談にやって来る。美女の相談を引き受けた探偵は卑しい街をあくせくと歩き回り、ヤクザや警官にこづき回されたあげくに、金にも色仕掛けの誘惑にも「それがどうしたというのだ」とばかりに、ハードボイルドに事件を解決させるが、大した報酬を得ることもないという私立探偵物語の原型こそ、ハメットの『マルタの鷹』にある。

 1929年に出版されたハメットの最初の長編小説『血の収穫』は、「緑色の女と灰色の男」という小節から始まる。緑色の女はもちろん美女だが、灰色の男は労働組合のオルグである。『血の収穫』は、サンフランシスコのコンチネンタル探偵社から派遣されたオブ(探偵)が、市行政と警察と資本家が癒着して腐敗した鉱山町で、町の浄化をやる話なのだが、労働組合のオルグである灰色の男は、鉱山労働者の組織化のためにIWWから派遣されたリーダーという設定になっている。
 『血の収穫』の中で、灰色の男は主要な登場人物である訳ではないが、1929年当時においては既に滅亡しつつあったIWWという労働組合は、ハメットの中に強い印象を残している。それは、ハードボイルド作家になる以前に、ハメットが実際にピンカートン探偵社でオプ(探偵)をやっており、そこでの体験もあったのであろうと思う。ピンカートン探偵社は、まだ連邦警察がない19世紀半ばに創設された全米をネットする民営の警察みたいなものであり、労働争議におけるガードマンみたいなこともやっていた。おそらく若きハメットも、たびたび鉱山争議などに派遣されたのだろうが、そこでハメットに刻み込まれたものは、資本家の腐敗であり、ストライキをする貧しい鉱夫たちの顔であり、それを指導するIWWという労働組合であったのだろう。

 『血の収穫』や『マルタの鷹』で、ハードボイルド作家として大成功したハメットは、その著作権や、ハンフリー・ボガード主演の映画『マルタの鷹』などの映画化権で莫大な富を得るが、公民権や労働者の権利擁護などに共感したハメットは、作家としての成功後はマルクス主義を信奉し、アメリカにおける共産党員の公民権を擁護した。そして、第二次世界大戦後の「赤狩り」で共産主義者として裁判にかけられた。
 狂気の“赤狩り”による罪状など、反民主主義的な言いがかりみたいなものであるが、ハメットにとって政治とは、信条の問題であった。『マルタの鷹』のサム・スペイドが、真犯人である美女の誘惑に対して、「それがどうしたというのだ」と対応するのと同様に、ハメットは裁判官や判事の尋問に対して、「お答えするのを拒否します」とだけ応え、投獄されたのだった。

 ハメットは、1959年に亡くなるまで、晩年は筆を折り、無一文で、友人の提供してくれたコテージでつつましやかに暮らすという生活を送った。時代は、アメリカが今日のグローバル資本主義に至るプロセスでもあったが、沈黙こそハメットの生き方であった。それは、誰かをかばうと言うよりは、ハメット自信の「信条」の問題であったのだろう。仲間への信義と自らの信条、それも「人と人をつなぐもの」として、前章で書いた「共感」と同列であると私は思う。

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IWWからヒッピーコミューンへ

  1944年11月、B29による本格的な東京空襲が始まったさ中に上落合のアパートで、辻潤がシラミにまみれて餓死した頃、ニューヨークでは海軍をドロップアウトしたジャック・ケルアックが、アレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズと出会っていた。これは、こじつけであるというよりもむしろ、私には輪廻転生であると思えてならない。

 「貨物列車に飛び乗って、ロサンゼルスをあとにしたのは、1955年9月も末に近い、とある日のちょうど正午のこと。無蓋貨車の一つにもぐりこんだぼくはダッフルバッグを枕にして寝転がり…」と、社会主義者で作家のジャック・ロンドンが描く“ホーボー”(貨車を無賃乗車しながら渡り歩くdharmabums非定住労働者)を思わせる書き出しで始まるビートの放浪を描いたジャック・ケルアックの傑作『ダルマ放浪者たち』には、主人公のレイ・スミス(ケルアックがモデル)が、サンフランシスコでジャフィー・ライダー(スナイダーがモデル)と出会い、1955年10月のサンフランシスコの画廊シックス・ギャラリーでのポエトリー・リーディングの後に、いっしょにカルフォルニアの山々を歩く姿が描かれている。

 『ダルマ放浪者たち』には寒山捨得を尊敬しているスナイダーが、ケルアックに寒山捨得を教える場面があるが、辻潤も『文学以外?』に「僕は今、フト少年時代、僕の好きだった浅草観音堂の額を思い出した。・・・両側には二人の童子が気持ちよさそうに寝ている・・・二人が寒山捨得といっ・・・」という辻潤の思い出話しがある。
  エマソンを「西洋の老子」と呼んだ辻潤は、西洋の中に東洋を探りながらも、「私はですから東洋風に、日本人らしく自分のダダを表現したいと思います・・・私は昔からタオイズムのエピゴーネンで、今でも荘子や列子を愛読しています」(1924年『ぐりんぷす・DADA』)と書いている。1918年に辻潤は、比叡山にこもって『自我経』の翻訳をしたが、1956年にスナイダーは、比叡山に登ることを夢見て日本に旅立って行った。

 エマソンは、。『ウォールデン(森の生活)』で知られるヘンリー・ソローと共に、1830年代のアメリカで超絶主義という思想を提唱し、「すべての人間の精神を結びつける大きな宇宙の精神構造がある」と主張した。そして超絶主義の考え方は、仏教の影響を受けているという。
 鈴木大拙は、老子研究をするアメリカ人の手助けするために、1897年にアメリカに渡った。1905年には、鈴木大拙の師である円覚寺管長の宗演がサンフランシスコに渡り、鈴木大拙と共に8ヶ月に及ぶ布教活動をしている。そしてケルアックの『ダルマ放浪者たち』には、バークレーにあるスナイダーの掘っ立て小屋に鈴木大拙の全集が置かれていることが書かれている。

 さて、辻潤が比叡山にこもっていた頃、20世紀の初頭のアメリカに、鉱山や鉄道工事、森林作業といった領域での底辺労働に携わる移民労働者を中心にした世界産業労働組合(Industrial Workers of the World=IWW)というサンジカリズムを唱える労働組合運動があった。
 1905年に日本を逃れてアメリカに渡った幸徳秋水も、アメリカのサンジカリズムに触発されて、帰国後は唯物論よりもアナルコサンジカリズムを唱えたのであるが、IWW自体は第1次世界大戦と大恐慌を経てパックスアメリカーナに向かいだしたアメリカ資本主義のトラスト化の中で、労働運動の中心をAFL(アメリカ労働総同盟)に取って代わられて、サンコ・ヴァンゼッティ事件などの冤罪弾圧を受けて、歴史の舞台からは消え去ってしまった。

 そして『ダルマ放浪者たち』には、スナイダーがケルアックに「僕がつねづね自由を旗印とする運動、北西部の無政府主義者の活動や、エヴァリットの虐殺事件(1916年に起こったIWWへの弾圧事件)の英雄に対して、共感を抱いてきたのは…」と語る場面が出てくるが、スナイダーはもうほとんど、ウオブリー(IWWの活動家の総称)の末裔である。

 ビートに始まる対抗文化の試みは、その後、ヒッピー・ムーブメントや学園紛争、ベトナム反戦運動へと引き継がれていくが、そこで行われたフリースピーチ運動やコミューンづくりなどは、IWWが行い、夢見てきたものでもあった。

 20世紀のアメリカは、資本主義の高度化と大衆社会を実現し、世界一豊かな社会を実現したが、その高度管理社会に対抗し、はみ出していく若者を絶えず生み出してきた。70年代以降も対抗文化する若者は、大型コンピューターに代えてパソコンを生み出し、80年代のレーガノミックスの時代には、多様な非営利活動のネットワーキングを広げ、90年代にはインターネットを開花させた。

 さて、アメリカ型市場経済の蔓延は、人と人とのつながりを解体していくが、ポスト産業社会にはいかなるコミューンが可能だろうか。これまでの話で私が思うことは、人や出来事は時空を越えてつながっているのだということと、そこで「人とひととをつなぐもの」のキイワードは、ケルアックが言うように、「共感(sympathy)」であるということである。前章で、朔太郎が辻潤に感じたのも、おそらくそうであったろうと私は思う。

 鈴木大拙やゲーリー・スナイダーが追い求めたものは、おそらく西洋と東洋との調和であり、IWWの貧乏労働者たちが夢見たものも、“Industrial Workers of the World”というその名称に表されたごとく、国境を越えた労働者の連帯、協同主義的共和国の建設であったのであろう。そして、ビート的生き方と、私が立ち上げたNPO自主事業サポートセンターは、私なりのその希求なのである。

 

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2005年6月 8日 (水)

辻潤と低人教コミューン

tuji  中里介山が生まれる前年の1884年2月に、自由党左派の大井憲太郎が秩父を訪れ、それを契機に秩父自由党員が増え、困民党の蜂起にもつながるのだが、同年に大井憲太郎が起こした大阪事件で爆弾の運び役をやり、後に大井憲太郎と結婚、離婚した女性に福田英子がいる。福田英子は『妾の半生涯』を書き、幸徳秋水らの平民社にも関わり、アナキスト石川三四郎の年上の愛人でもあった女傑だが、彼女が滝野川の中里に住んでいた頃、その近くの染井に辻閏が住んでいた。

 辻潤は、近代日本女性史の中で燦然と輝く伊藤野枝に惚れられて妻にめとり、彼女を大杉栄に寝取られながらも、マックス・シュテイルナーの『唯一者とその所有(翻訳名:自我経)』の翻訳者として大正から昭和にかけての一時期にフアンを得た実存系アナキストである。伊藤野枝と同棲を始めた辻閏は、染井に家を構え、近くの福田英子宅に出入りしていて、そこで渡辺政太郎に会い、仲がよくなった。

 渡辺政太郎は「白山の聖人」と言われたアナキストで、白山上は南天堂の二階に住んで、後に「北風会」となる研究会を主催していた。そして、その渡辺政太郎が辻潤の家に連れてきたのが、大杉栄であった。
 「(野枝さんは)ひどくゴルドマンの思想に影響されて、やがて日本のゴルドマンになろうとする程の情熱を示してきた。・・・野枝さんは至極有名になって、僕は一向にふるわない生活をして、様様と暮らしていた。・・・そこへ大杉君が現れてきた。一代の風雲児が現れてきた。とても耐ったものではない」(1923年『ふもれすく』)
 伊藤野枝は大杉栄のもとに走り、辻潤は浅草にパンタライ(万物流転)社を構えて「英語・尺八・ヴァイオリン教授」の看板を掲げ、やがて、比叡山の宿坊にこもってマックス・シュテイルナーの『唯一者とその所有』の翻訳をすすめ、『自我経』の教祖となった。

 伊藤野枝が去った後、辻潤は「(野枝さんから解放されて)後存知のようにボヘエムになってしまった。心機一転して、僕自身にかえり、僕は気優にいきてきた」と書いているが、酒におぼれ、尺八を吹いて放浪をするようになる。そして、1923年9月16日、「夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔付きをして俗謡のある-節を口ずさみながら膜臆とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた。・・・Y港へ来ると、早々新聞記者がきて、大杉他二名に対する感想を話してもらいたいといった」(1923年『ふもれすく』)。
 辻潤は、関東大震災の直後に大杉栄と共に虐殺された伊藤野枝の思い出を書くように雑誌社に頼まれて、『ふもれすく』を書いた。「野枝さんや大杉君の死について僕はなにもいいたくはない」とあった。「しかし、僕は野枝さんが好きだった」の一言を読んだ時に、私は大杉栄が嫌いになったのだった。

 私は、大学を中退した後に文京区は白山上の南天堂という書店に働いたことがあった。大正期の南天堂の二階にはレストランがあって、そこには大杉栄や渡辺政太郎や辻潤や萩原恭次郎や岡本潤や林芙美子といったアナキスト、ダダイストの詩人がたむろしていたということであったが、当時、辻潤はすでに忘れられた思想家であった。

 会社勤めを辞めて失業生活を始めた頃、私は辻潤の本を探すのに、深川図書館に行った。1909年開設の東京市立図書館であった深川図書館には古い蔵書があって、非公開の書庫から1936年刊の『子々以前』という本を借りたら、そこには、萩原朔太郎が『辻潤と低人教』という一文を寄せていた。
 「彼の周囲にはいっも市井のルンペンや労働者が集っている。人生に敗惨した失業者や無職者は、彼によって自分の家郷と宗教を見出すのだろう。・・・彼はこれ等の弟子たちに囲まれながら、絶えず熱心に虚無の福音を説教している。・・・ヨタのでたらめを飛ばしながら説教する。そこで彼の弟子たちは不敬にも師のことを「辻」と呼びつけにし、時には師の頭を撲ったりする。これは不可思議な宗教である」「辻潤のような文学者が、日本に生まれるということは悲劇である。彼の日本で生くべく道は‥生活者としての自我に孤立する外はないであらう」「或る多くの人にとって彼はたしかにアナアキイ的無頼漢であるにちがひない」と。辻潤の周辺は、まるで低人数コミューンである。

  朔太郎以外にも、辻潤は詩人と縁がある。無名の宮沢賢治の『春と修羅』をいち早く評価したのも辻潤であるし、1927年には中原中也が辻潤を訪ねて来てもいる。中原中也は、京都以来同棲していた長谷川泰子を東京に出て来て間もなく小林秀雄に寝取られていたが、辻潤もかつて伊藤野枝を大杉栄に寝取られた男だったことを知っての訪問であったのだろうか。中原中也は、1937年に精神病院を入退院した後、死んだが、辻潤も1932年頃に発狂して精神病院の入退院をくり返しながら、1936年頃より全国を放浪した。そのスタイルは、尺八一管の門付乞食であり、全国のフアンを訪ねての無心と居候であったという。

 発狂前後の文章には、次のようにある。
 「僕にだって昔はユートピアの夢位はあったが、それはとっくに消え失せてしまったのだ。むしろ人間が役にも立たんユートピアを夢みることによって、醸し出す行為がよけい人生を不幸に陥れているとさえ信じている。・・・自分は詩人ではないが、ひどく空想癖が強く、世間的なことにあまり興味を持たない人間である。社会人としてはまずゼロである。・・・自分で今まで生きて来られたということは考えると奇蹟に近い。」(1931年『のつどる・ぬうどる』より)。「およそこの世の仕事の如何なる種類を問わず、自分が満足に出来るようなことは見渡す限り一ツだってありそうにも思われなかった。しかしなんとかしていきてゆかねばならない。」(1932年『天狗になった頃の話』より)。

 1930年に大恐慌が発生し、これらの文章はその最中に書かれたものである。恐慌は適者生存の市場原理と、市場原理を統制しようとする国家主義的ファシズムを招いた。そして、辻潤の生き様とは、まさにそれらの対極にあったが故に、時代の中でその可能性を閉ざされてしまう。アグレッシブに生きずに無為自然に、受け身に生きようとしたことの結果であると言ってしまえばそれまでだが、1937年に31歳の若さで中原中也が亡くなり、1942年には萩原朔太郎が57歳で亡くなったことを思えば、器用に身過ぎ世過ぎのできなかった辻潤の死も、その延長にあったのではないかと思われる。

 辻潤はアナキストかと言えば、労働運動や直接行動をした訳でもなく、いわゆるアナルコサンジカリストではない。本人はアナキストと言われることを嫌がったそうだが、シュテイルナーがアナキストであるなら、辻潤も間違いなく実存系のアナキストであり、辻潤からすれば、大杉栄は「憑かれた人」のひとりであったにすぎない。プルードンによれば、アナキズムの弁証法は、階級間の対立によるのではなくて、権威と自由の対立に基礎をおく。「万物は自分にとって無である」とした辻潤は、「“辻”という人そのものが、それの表現された“作品”なのであり」(萩原朔太郎)、アナキズムなのであった。

 もし辻潤が敗戦後も生きていたらと思うことがある。中里介山も、萩原朔太郎もしかりである。しかし、敗戦後も生き残った太宰治が、間もなく自殺してしまったことを思えば、戦前も、戦後も大した違いは無かったのかもしれない。

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中里介山『大菩薩峠』とコミューン

 要は、私は「人と人とをつなぐものは何か」「自由に生きるとは何か」ということを、このブログで、あれこれ雑文しながら考えてみようと思っている訳だが、「コミューン」という昔から惹かれた魔語について、あと少しだけ雑文をしてみようと思う。

 コミューンというと思い浮かぶのは、パリ・コミューンと秩父困民党コミューンである。

 プロシヤとの戦争に敗れ、プロシヤ軍の包囲と入城を前にしたパリで、第二帝政崩壊後の政府が、プロシヤ軍よりも国民衛兵を恐れて、パリ防衛のための大砲を取り上げようとしたことに対して、1871年3月18日、パリの民衆は立ち上がる。パリ・コミューンである。
 「1871年3月19日。一都市の上に最も美しい曙光が輝く、それは新時代への期待、予感、前兆が成就されるにいたる最も華麗な夜明けであり、夢であり、“ユートピア”である。・・・パリは、自由なものとして目覚める。都市というものが存在して以来の最初の自由な都市である。パリは新しい生活を試みようとする。その新たな生活のなかで、人々は自らの運命を自己の手に握るであろう。大きすぎもせず、小さすぎもしない限られた社会的基盤一地区(カルチェ)-の上で、人々は公共の仕事、自分たちの仕事に参加しようとする。彼らはこの基盤の上で、自己管理、喜びのなかでの自由な労働を創造しようとする。彼らは地方分権を組織しようとする」(H.ルフェーブル『パリ・コミューン』)
 中央委員会に結集した無名のコミュナールたちは、プルードン主義にもとづく「地方分権と連合主義の実現、すなわち社会を自由な連合組織の統一体に根本から変えること」をめざしたが、その2ケ月後の5月28日、ヴェルサイユ軍により最後の抵抗が-掃され、パリ・コミューンは終焉する。

 パリ・コミューンから13年後の1884年に、日本でも秩父を“無政の郷”と化した秩父困民党の蜂起、秩父事件というよりは、秩父困民党コンミューンが起こった。
 パリ・コミューンが第二帝政下での経済成長と労働者の窮乏化を背景に起こったように、秩父コンミューンは、絶対権力化と資本の蓄積を強行する明治政府への反発とデフレを背景に、窮乏化した農民が負債の延納、雑税の減少を要求して起こり、自由民権運動の最後を飾った蜂起であった。
 11月2日大宮郷(現秩父市)を見下ろす寺に結集した野良着の農民軍は、鐘の乱打と共に大宮郷になだれ込み、高利貸しと郡役所と警察署を襲った。蜂起は、9日間にわたる遊撃戦の後、八ヶ岳の山麓に潰えたが、秩父は当時の国策産業である生糸の生産を通じて世界につながっており、パリ・コミューン後に成立したフランス第三共和国は清仏戦争の最中であった。

 秩父困民党コンミューンの翌年、1885年に中里介山は、自由民権運動の余韻が残る多摩に生まれた。中里介山の代表作、全20巻の大著『大菩薩峠』は、1913年から書き始められ、1941年まで書き次がれ、敗戦の前年に中里介山が死ぬことでnakazato、未完のまま残された。内容的には、今から約150年前の1853年、ペリーが初来航した年から、明治維新の前年の1867年までの幕末を時代背景として書かれており、書かれたれた当初から大衆受けして評判となり、戦後も市川雷蔵が演じる机竜之介と必殺音無しのかまえで人気映画となったが、そこに中里介山が書こうとしたものは、果たして何であったのだろうか。読後の感想を一言で言えば、それは剣豪小説であるというよりは、一種の「コミューン論」であった。

 「甲源一刀流の巻」に始まるように、当初の企画は剣豪小説であったのかもしれない『大菩薩峠』は、書き始められてから30年近く経た最後の巻を、駒井の殿様を中心とする一団が日本を脱出して南の島でコミューンづくりを試みる「郁子林の巻」で終わっている。さらに私が驚いたのは、一団がたどり着いた南の島には既に西洋人の先住民がいて、駒井の殿様に、ロバート・オークェンの協同社会づくりの試みの失敗を例にして、駒井の殿様たちのコミューンづくりの失敗を予告することであった。
 私は、失業するまでは長い間、協同組合に職を得ていて、ロバート・オーウェンを尊敬し、協同社会づくりを夢みながらも、それらの困難さをますます痛感するところであったから、『大菩薩峠』の最終巻にたどり着いた時には、もうほとんど目からウロコの心境となったのだった。

 では何故、中里介山は死ぬまで『大菩薩峠』を書き続けたのだろうか。そして何故、ペリー来航の年から始まった物語は明治維新を迎えることもなく、そして何故、未完のままに終わったのだろうか。若き中里介山は、幸徳秋水に共感し、明治36年に幸徳秋水らが創刊した週間『平民新聞』に寄稿したりしていたが、『大菩薩峠』が単なる剣豪小説でなく、机竜之介が単なる音無しのかまえのニヒルな剣士ではなく、「無明」の世界を生きる者として再構成されていったきっかけには、大逆事件と幸徳秋水の刑死であったと言われている。
 おそらく、多くの近代の優れた文学者や知識人たちが明治維新を問い、日本の近代化を問うたように、中里介山もそれを問おうとしたのだと思う。

 中里介山は時代を多面的に描こうとして、同時進行的に多様なキャラクターを登場させる。そして、その誰もが魅力的だが、終盤に入ると『大菩薩峠』の内容は、お銀様と駒井の殿様による二つのコミューンづくりへと展開して行くのは、また何故だろうか。明治維新、もしくは日本の近代化のオルタナティブの模索であったのだろうか。
 二つのコミューンづくりとは、駒井の殿様のコミューンと、お銀様のコミューンである。駒井の殿様のめざすコミューンとは、近代的な理性と合理性にもとづく、ロバート・オーウェン的な民主的な協同社会である。-方、銀様のコミューンとは、お銀様という知力、財力、指導力の優れたいわば独裁者によるソヴィェト型もしくは国家社会主義型の人民共和国である。しかし、二つのコミューンの描かれ方は、近代の戯画である。
 お銀様に竜之介は言う。「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。・・・人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」と。中里介山は書く。「すべての人が、その領土に於いて、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠り、駒井甚三郎は海に拠り、竜之介は夢の中に生きている」と。

 中里介山は、1922年に高尾山に草庵を結び、御岳山麓に移り、1930年には羽村に西隣村塾を開いた。それらは農業と教育を一体化した、自らが拠って立つ根拠地であった。松本健一氏は、それを「一定の土地において自給自足の生活をつづけることによって、現実社会のありようと括抗する、いわば-種のコミューン形成の開始である」「農本的アナキズム」(『中里介山』)と書いている。
 1942年、中里介山は日本文学報国会より評議委員に選出されたが、それを拒否した。それは、食料を自給自足でき、印刷所まで持った自らのコミューンに拠り、未完の『大菩薩峠』の先に、不可視のコミューンを求めればこそであったと、私には思われる。

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2005年6月 7日 (火)

ワーコレとコミューン

 私が生協で働いていた頃、私はワーコレ(ワーカーズコレクティブ=生産協同組合)に関心を持っていた。小売業としての消費生協よりも生産協同組合の方が、協同組合本来の在り方に近いと思われたからであり、行き詰ったヨーロッパの生協からは「レイドロウ報告」(1980年)の中で、生産協同組合が再提起されていたし、日本でも1970年代末から石見尚氏らが再提起していて、生活クラブ生協ではそれが試行されていたし、東部の労働運動では倒産企業の労働組合による自主再建闘争が闘われていたし、それらの中に新しい時代の企業の在り方や働き方が予兆されていると思われたからである。

 しかし結論から言うと、21世紀を目前にした大転換期にあって、やがて全世界を覆いだしたのは、「レイドロウ報告」が危惧した多国籍企業化を上回るグローバリゼーションとアメリカ型市場経済化の大波であり、本来、それらへの防波堤たる地域共同体なり、組合なりといった相互扶助的な在り方は、時代への対応力を欠いたままではさらに解体が進むだろうというのが実感であり、生産協同組合も、旧来型の労働組合や協同組合の延長にあっては、困難だということである。

 昔から左翼運動をする人が惹かれる言葉に「コミューン」という魔語がある。抑圧から解放された空間といったイメージであり、「ユートピア」にも似た希望の世界であるのだが、果たして「コミューンは可能か」と問うたとしても、ユートピアみたいに「どこにもない場所」とは言わないが、「歴史上、成功したコミューンなどあるのか」という答えが返ってくるのが落ちである。

 とは言っても、コミューンがユートピアと違うのは、どこにもない訳ではないからである。パリ・コミューンにしろ、秩父困民党コミューンにしろあったし、H.ルフェーブルが「パリ・コミューンとは何か。それは巨大で雄大な祭りであった」「そのスタイルを祭りとドラマと定義する」と書いているとおりであるとすれば、私が80年代に体験したパラマウント製靴の自主生産闘争など、10年以上続いたその空間は、間違いなくコンミューンであった。

  さて、ワーコレの話がなぜコミューンの話になってしまうのかと言えば、パリ・コミューンが継para 続数ヶ月、秩父困民党コミューンが継続数日であったのに対して、パラマウント製靴の自主生産闘争は10年以上闘われたし、その原因は、パラマウントには圧倒的な軍隊による圧殺がなかったからというよりは、パラマウントが「産業的コミューン=生産協同組合」であったからである。

 自主生産企業は、パラマウント以降も幾多の労働運動の中からいくつも生み出され、「自主生産ネットワーク」もつくられている。しかし、自主生産企業の本当の困難は、それを闘い取った後に始まる。乏しい資金やマネジメント力で、市場経済の中で事業活動をしていかなくてはならないし、併せて、相互扶助とか友愛といったもの、人と人とのつながりをどうつくるのかという大きな課題もあるのである。

 しかし、産業の場で、地域の場で、人と人とのつながりが創れるのなら、もし「ささやかなコミューン」が可能であるのなら、市場経済をしのぐことは可能であると私は思うのだが。ただし、市場経済をしのぐと言っても、市場経済を否定することではない。市場経済の中にあっても、人と人との関係を保ちながら充分に生きられるという意味である。そしてこのことは、同時に「自由に生きる」という問題につながっていると、私は思うのだが。

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2005年6月 5日 (日)

SOHO・NPO・BEAT的人生

miura  私は、5年前に会社勤めを辞めて、パート仕事でしのぎながら、SOHOスタイルでDTP仕事を始める一方、失業者ユニオンにも参加して、その仲間とこの春に独立自営型の仕事起しする人をサポートするNPO「自主事業サポートセンター」を立ち上げたら、その直後にパートを解雇になってしまったので、この際とばかりに、50代半ばにしてフリーな生き方というか、SOHO・NPO・BEAT的人生を始めることにしたのだった。

 5年前に会社勤めを辞めた時もそうだった。7年前に出向に出されて、2年間の出向期間が終わった後も、元も職場には戻れないということであったので、この際とばかりに、会社勤めを辞めたのだった。 バブル経済が終わって、グローバル化が進んで、企業のあり方や、働き方が大きく変わりつつあったし、そこにしがみついても明るい人生が開けるようには思えなかったし、この際、自分のやりたいことをやって、生きてみようと思ったのだった。 

 会社勤めを辞める時に、辞めた後は何をしようかということで、食べるためには再就職というよりは、自分で生業を始めようと思った。再就職に役立ちそうな専門的なキャリアは何もなかったし、年齢的にも再就職は無理であった。そこで、自分の好きなこと、本に関わることを生業にしようと、物書きは無理そうなので、DTP仕事を手に職つけて、SOHOスタイルで本づくりを生業とすることにしたのだった。

 それともうひとつ、NPOを企画した。かつて私は、長いこと生活協同組合に職を得ていたのだったが、その当時から「新しい時代の非営利事業」について考えてきて、クローズドなまま巨大化しつつある現在の生協というよりは、ワーカーズコレクティブ型で、しかもオープンな仕組みのスモールコミュニティ型の在り方を模索してきた。そして、1993年と2000年にアメリカのサンフランシスコのNPOを見学する機会があり、「新しい時代の非営利事業」は従来型の協同組合の延長にあるというよりは、NPO型に近いものなのではないかと思い、それを試してみたいと思った訳である。

 ポストバブルの1990年代にあらわになってきたのは、グローバリズムとアメリカ型市場経済の進行である。かつて市場経済でない社会を求めた人々は、政党や組合といった組織の延長に「組織された社会=社会主義」を夢想したが、ポスト工業化社会の進行は、その前提を失わせた。そして、アメリカ型市場経済が猛威を振るっているが、非営利活動であろうと、市場経済に対応するには市場経済的にやるしかないというのが、アメリカのNPOの仕組みである。

 私は5年前に失業してから、失業者ユニオンという謂わば労働組合に入った。ユニオンとはいっても、そこの参加者には所属する会社はなく、ユニオンの課題は「仕事起し」であった。そこで自らの仕事起しも含めて、そのためのNPOを企画して、結局、この春にやっと前述の「特定非営利活動法人・自主事業サポートセンター」を立ち上げた訳である。

 さらにもうひとつ、私がリストラ状況に陥った頃、私は一群のビート系の詩人たちと知り合いになった。ビートとは、1950年代のアメリカ社会の未曾有の繁栄の中にあって、資本主義に背を向けて自由に生きたジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダーといった一群の詩人たちのことで、後のヒッピーの元祖でもあった。

 私は昔から勉強が嫌いで、高校生の頃は新宿や日暮里のジャズ喫茶に入り浸りの青春を送ったが、60年代末の新宿文化的、カウンターカルチャー的なライフスタイルのまま、相変わらず貧乏にして自由に生きている一群の人々、ムロケンさん、セブンさん、JUNさん、ガンジーさんといった、ビート、ヒッピー、ふーてんたちと謂わば「再会」した訳である。

 グローバリスムとアメリカ型市場経済の進行、さらにはアメリカの「帝国化」のすすむ現在は、その一方で「近代主義」の有効性の問われる時代でもある。果たして「自由と民主主義」は普遍的な概念なのか、「自由に生きる」とはどういう生き方なのか、「人と人とを結ぶもの」とは何なのか。果てまた、「世界」はいかにできているのかまでを、このブログでモノローグしながら、少しでも極められたらと思う次第である。

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